丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を読む
「風死す」にも繋がる世界がある!
ちなみに私が勝手に考える「風死す」を楽しむ方法
丸山先生の最後の長編小説「風死す」の話になると、悲しそうな顔をして全四巻のうちの1巻の最初あたりをまだ彷徨っているんです……と言われる方によく出会う。
先日、お庭見学のときもそんなことを言われている方がいた……。
そういう言葉を聞く度にに「なぜ、理解力の劣る私が全部読了したのだろうか?」と自分でも不思議に思う。
今も本棚で「風死す」の頁をペラペラ繰っては「読んだんだ、とりあえず」と確かめてきた。
「風死す」の読書体験は決して苦痛ではなく、すごく愉しみ溢れるものだった。
(学生時代、ダダの詩が専門だったので、私は元々ストーリー性や意味性のあまりない世界の方が親しみやすい特異体質、理解力軽視派なのかも)
私が考える「風死す」の楽しみ方を以下に四点ほど書いた。
「風死す」の楽しみ方其の1
「風死す」の頁を開けば、思いがけない言葉の組み合わせが怒涛の如く流れ込んでくる。意味を考えずに、童心に帰って、言葉のカレイドスコープをガシャガシャ動かして覗き込む気持ちでページを繰ってゆく……
「風死す」の楽しみ方其の2
普段無意識に思っていても言葉が思いつかなくて言えないような国家や偉い連中への鬱憤を語る部分をクローズアップして読んでスッキリする……
「風死す」の楽しみ方其の3
本のどこかに丸山先生自身が潜んでいることが多い。そんな隠れ丸山先生を探して「あ、いた!」と発見して、そういうことを考えていたんだ……と気づく。
「風死す」の楽しみ方其の4
丸山先生の哲学、物理学などへの思いが語られていることも多く、たしかにその度に頭がついていけず優等生を前にした劣等生の気分になる。
でも大体の読者は丸山先生よりも年下ではないだろうか?
丸山先生の年まで頑張って勉強したら、こういう哲学的世界が分かるかも!と難しい考えはそのうち分かるかもとスルーして、ただ長生きしようと前向きに思う……もちろん理解できれば更に楽しいと思う。
以上、私が思う「風死す」の楽しみ方。
手にしている「風死す」は言葉のカレイドスコープだもの。ガシャガシャ動かす度に現れる言葉の形を楽しんで、ストーリーはあまり考えない方がいいのではないだろうか?
こんな「風死す」の楽しみ方を書けば、怒られてしまいそうだが。
でも先日、ある小説家(丸山先生ではない)が語られた言葉が心に残る(うろ覚えだけれど)。
「ずっと詩歌の方が小説より格上だった。そもそも小説なんて詩歌と比べたら、たった200年の歴史しかないんだもの」と語られていたような……。
たしかに詩歌と比べたら、歴史の浅い小説だから形はこれから変わっていくだろうし、いろんな試みがあっていいのではないだろうか。
「我ら亡きあとに津波よ来たれ」は、そんな「風死す」の楽しみ方に繋がる部分のある、でも「風死す」よりはストーリー性のある作品だと思う。
「我ら亡きあとに津波よ来たれ」の以下引用部分は、丸山先生ご自身の書くことへの思い、それから社会への批判的思いがよく伝わってくる箇所のような気がする。
義母を殺めた青年がだんだん立ち直る場面。
ワンセンテンスの途中から部分的に引用。
それどころか、
心に刻印されている習熟した全てを語り尽くそうとし、
終わりなき服従を強いる文明を真正面から告発し、
理知に欠けるうらみがある伝統主義を墨守するための権威を失墜させ、
阿諛追従を重ねるしか能がない衆俗を激しく嫌悪し、
社会の仮面を暴く真理の片鱗をちりばめた、
それほどの熱い意志が言外に含まれている
まるで炎で書かれたのかのような、
そして、
絶品と目され
優雅な甘美さを具えた刀剣を想わせるような、
まさしく<次世代の詩>の濫觴をそこに見た思いがするような、
また
ありとあらゆる飾りを欠いた生の在り方を猛烈に欲するような、
その冷淡さはしかし
むしろ温情の裏返しではないかと思えるような、
生来の弱点を克服するという
おれをしてその境地へ至らしめるような、
自律的主体性を奪い
魂を縛るための拘禁服としての社会的統制を嗤えるような、
そんな斬新な作品を
干からびた心に命を吹きこむ文芸の蘊奥として
あざやかにものすることができそうに思えたのだ。
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻347頁)
「風死す」は、丸山先生の出版組織いぬわし書房でまだ販売中だと思う。
興味のある方は以下をご覧ください。
https://inuwashishobo.amebaownd.com/pages/4062993/page_202007180848