丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十二日を読む
ー丸山先生が「土蔵」に込めた思いとはー
一月十二日は「私は土蔵だ」と始まり、農家の土蔵が語る。江戸川乱歩とか坪内逍遥とか土蔵を書庫代わりに使い、まだその土蔵が残っている作家もいる。でも丸山先生の場合、土蔵はあくまで生活の風景の一部のようである。たしかオンラインサロンで幼いとき土蔵に暮らしたことがある……などと語っていらしたような記憶もある。
以下引用文の土蔵の描写に、丸山先生の記憶にある土蔵の役割が浮かんでくる。そんな土蔵を見捨ててゆく夫婦の様子も細かいことは書かないながら、収穫したばかりの米を炊いて食べ、蔵の古米を売り……という文に、大変な稲作を愛すれどどうにもならない現状が伝わってくる。
でたらめに過ぎる農政にとことん失望し
先行きに絶望してまほろ町を離れた農家の
まだまだ充分使用に耐える
古びた分だけ風情を醸す土蔵だ。
昨年の暮れ
老夫婦は秋に収穫したばかりの米を炊いて食べてから
私が貯蔵していた古米の果てまで売り飛ばし
先祖伝来の田畑を見捨て、
(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」14ページ)
以下引用文。そんな家からとうに家を飛び出していた五男が戻ってくる。母屋には目もくれないで、ただ土蔵だけを見つめる……のはなぜなのだろう。
丸山先生が「ただひたすら私のみを見つめた」とだけ書いてある、その背後にある物語を考えてしまう箇所である。書かずして物語を語る……ということもできるのだなと思った。
身ひとつでこっそり帰郷した彼は
誰もいない母屋にも
荒れ果てた耕作地にも
立ち枯れた果樹にも
四方を囲むカラマツの凄まじい成長にも
さして驚かず、
そんな代物には目もくれないで
ただ私のみを見つめた。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」15ページ)