丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』を途中まで読む
ー幽霊がでそうな雰囲気を盛り上げる文ー
『今宵、寒月の宴に』を途中まで読む。
どうやらかつて谷川に入水自殺した老女の幽霊を、吊り橋「渡らず橋」が見る不思議な幽霊譚らしい。
いかにも幽霊がでてきそうな夜……というものを、実に細かく描いている。
だから老女の幽霊が出現した頃には、ようやく嵌めるべきジグソーパズルの最後の一片が見つかったような気になった…。
幽霊がでてきそうな夜の演出をいくつか引用してみたい。
まず地上では虫の音が哀れに鳴く。
目に立つ動きを見せているのは星のまたたきと谷川の水くらいで、
単調にして微細、
かつ、
心をかすめ取るほど蠱惑的なその震動にしても、
鳴くことによって存在の悲しみを包みこむために生まれてきた虫たちと同様、
むしろ静寂をより深める側に味方しており、
(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』182頁)
地上の小さな虫を見つめた後、作者の目は突如として天の月に向けられる。
天も、地も自由に行き来するダイナミックな視点が、丸山文学の魅力だと思う。
ちっぽけな自分がとてつもなく大きな存在と隣り合わせている……と想像すれば、心が軽やかになる。
非常なる周到さでもって準備万端怠りなく構成され、
今は天高く輝き、
太陽系を司る運動と軌を一にしながらも、
「私は私であって、私以外の何者でもない!」
と、
そう胸を張って宣言できるほどの矜持を持った明月は、
(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』182頁)
視覚に訴えるだけでない。
コノハズクの鳴き声を語ることで聴覚も刺激してゆく。それもどこか物悲しいコノハズクである。
ただならぬ事態への期待を高めてゆく。
かと思えば、
ひょっとすると地獄の神の化身かもしれぬ陰気な鳥、
コノハズクが放つ、
「ぶっぽうそう!」という、
心魂を撹乱し、
この夜の核心を端的に表現し、
存在の本質を誤認させかねぬほど深遠な鳴き声は、
(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』188頁)
森、月、コノハズク……と不穏な気配が語られるうちに、やがて「渡らず橋」の周辺の空気は少しずつ歪んでゆく……。
作者が丁寧に張りめぐらす文をゆっくり追いかければ、読み手も不思議な空間に居合わせているような気に。歪みはじめた空間を自然に受けとめている。
つまり、
ほんのわずかだが時空間にけっして不快ではない歪みが生じ、
最も遠い過去へといざなわれそうなほど魅力的な空気が立ちこめ、
生と死という絶大なる真理が相克しつつ互いに閉ざし合い、
「渡らず橋」の周辺が言うに言われぬ変形を呈した瞬間、
(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』190頁)
ざっと飛ばし読みしている時には気がつかない散文の魅力。
なぜだろう……とチマチマとメモしてゆくと、少しだけ作者の工夫が分かる気がする。
ただ世の人は私のようなスローテンポで生きている暇人は少ない。
超特急で筋のポイントだけ追いかける忙しい人の方が多くて、中々おもしろさが分かってもらえない…ことが残念である。