丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む
ークレーンという語り手にぴったりの冷ややかな言葉ー
十二月五日は「私はクレーンだ」で始まる。
以下引用文。上棟式のために使われる大型のクレーンが見つめるのは、「孫の誕生に期待して資金の全部を出した双方の親」だ。
だがそうした行為が、子供夫婦から「与えた以上のものを奪ってしまった」と冷ややかに語る。このクールさも、クレーンという無機質な存在だから違和感がない気がする。
「生きる目的の半分と描いて楽しむ夢の半分をあっさり失った」「あてがわれた幸福を前にして幼児同然」という言葉に、丸山先生が理想とする生き方が見えてくる気がする。
要するに
これで若いふたりは
生きる目的の半分と
描いて楽しむ夢の半分をあっさり失ったことになり、
いくら言っても言い甲斐のないかれらは
あてがわれた幸福を前にして
幼児同然の体たらくだ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」264ページ)
そんなクレーンが見つめる、上棟式の餅まきを必死になって拾い集める人々の中に、世一もいたり、丸山先生らしき人物も紛れ込んでいるのに思わず微笑んでしまう。
自分自身の姿を表現するのに、こんなふうに絵画のようにして、距離を置きながらユーモアを込めて描く方法もあるのかと思った。
私に吊るされて鳥を演じてみたいと本気で願う少年や
思索の疲れを癒してくれそうな黒いむく犬を連れた男が
無様に地べたを這いずって
天から降ってくる
さほど心が籠っているとは思えぬ金品を
血眼になって拾い集めていた。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」265ページ)