さりはま書房徒然日誌2023年8月8日(火)旧暦6月22日

移りゆく日本語の風景ー妹背山婦女庭訓の烏帽子職人という設定に思うー

この夏、大阪の国立文楽劇場で上演されている文楽公演2部「妹背山婦女庭訓」は、蘇我入鹿、藤原鎌足、天智天皇の時代が舞台。

江戸時代の浄瑠璃作者・近松半二らが書いて1771年に上演された作品とのこと。

作者・近松半二にとっても遥か遠い時代、見たこともない雲の上の存在の人たちのことを想像をめぐらして書いたのだろう……と感慨にうたれる箇所が随分とある。

烏帽子も、江戸の作者が天智天皇の時代らしくしようと工夫をこらした、そんな設定のひとつだろう。

藤原鎌足の嫡男・淡海は烏帽子職人の求馬に身をやつしているとき、杉酒屋の娘お三輪に惚れられてしまう……。

そんなストーリーに烏帽子職人は江戸時代にも存在する職人だったのだろうか……と烏帽子を調べてみる。

ジャパンナレッジ日本大百科全書によれば、烏帽子とは

冠は公服に、烏帽子は私服に用いられた。形は上部が円形で、下辺が方形の袋状である。地質については、貴族は平絹や紗 (しゃ) で製し、黒漆を塗ったもの。庶民は麻布製のものであったが、中世末期より、庶民はほとんど烏帽子をかぶらなくなり、貴族は紙製のものを使うようになった。

ジャパンナレッジ日本国語大辞典によれば

鎌倉末期からいっそう形式化し、紙製が多くなり、皺(しぼ)を設けた漆の固塗が普通となったため、日常の実用は困難となった。一般に儀礼の時のほかは室町末期から用いなくなった。

ある時代までは庶民もかぶっていたが、中世末期から庶民はかぶらなくなり、室町末期からすべての身分において廃れていったものらしい。

たぶん作者・近松半二は天智天皇の時代らしさをだすために、求馬を烏帽子職人という設定にしたのではないだろうか?

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