丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読む
ー川の流れは記憶の流れ—
—「思い出す」という言葉を様々に言い換えてー
徒然川を下る屋形船おはぐろとんぼ。
その脳裏に浮かんでは消えてゆく様々な人々。
そうか….川は丸山先生がテーマとされている記憶の流れそのものなのか。
以下の箇所、そんな老いから若きまで、おはぐろとんぼの、いや丸山先生の意識に浮かんだ庶民の姿がありありと描かれている。
それから「思い出している」のに、「思い出す」という言葉は一度しか使わずに、あとは色々表現を変えている。
丸山先生の指導を受けていると、「また同じ言葉」とよく指摘されるも、私の語彙はすぐに尽きてしまう……。
同じ言葉を繰り返さないという努力は、読者は気がつかないがとても大変なもの。
でも繰り返しを避けることで、それぞれが別のストーリーのような、そんな引き締まった感じが出てくるように思う。
何がどうなってそうなるのかについては
さっぱり解せないのだが、
異界へと旅立つ前に
全生涯の歓びをそっくり想い起こす
瀕死の年寄りの歪んだ笑顔なんぞがよみがえり、
まさに芳紀十八歳の娘の残香が
水の匂いを押しのけて辺り一帯に漂い、
安くてけっこう食い出のある天丼が目当ての客が
連日大挙して押し寄せた村の食堂のことが思い出され、
呵々大笑だけが取り柄の
いたって無芸な炭焼きが
とんだ心得違いから生じた妄念に悩む
見るからに気の毒な姿が追憶され、
舟運の便が良い徒然川と共に流れる
根も葉もない噂のひとつひとつが
厳寒の打ち上げ花火のように
楚然として闇に浮かび、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻447頁)