丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む
ー「 」の会話文にしないことで生まれる効果ー
「私は弱音だ」で始まる十一月十八日。
「不治の病に浸された」世一の母親が勤務先のスーパーでレジ打ちをしながら漏らす「弱音」が語り手である。
この箇所を、普通の書き方にして母親の言葉を「 」の会話文にしてしまうと、感情に走ったり湿っぽいだけの文になってしまうと思う。
だが以下引用文のように、母親から吐き出された「弱音」が自在にスーパーの店内を駆け巡って聞き手を探したり、客の様子を観察したりする。
そんなあり得ない情景はどこかユーモラスであり、湿った悲哀から解放してくれる。それでいながら母親の孤独を語ってくれるのではないだろうか?
そして
さまざま憐笑の間隙を縫って突き進み
親身になって私の話に耳を傾けてくれそうな相手を
あるいは
私などもう恥じ入るしかない
もっと凄い悲劇を背負った母親を
懸命に探し回る。
しかし
どの客もしっかりと財布を握りしめて
まずまずの幸福の領域に身を置き、
生鮮食品を品定めする鋭い眼差しは
ともあれきょうを生きることに満足して
それなりの輝きを放っている。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」194ページ