(バナジー氏から直接許可をいただいたので、2008年発表のこのエッセイを少しずつ翻訳していきます。原文はMIT Economisのバナジー氏のサイトにあるpaper一覧2008年発表のWhy fighting poverty is hard、A4で16枚くらいです)
アビジット・バナジーのエッセイ「なぜ貧困と戦うことが難しいのか」
反貧困の政策が本来のものより機能しない理由のひとつとしてあげられるのは、私たちの取り組み方が単純であり、なぜ政策が困難なものとなっているのか十分理解していないからである。このエッセイは、インドにほとんどの基礎をおく私自身の調査から「なぜ貧困と戦うことが難しいのか」という問いについて、私が学んできたことをまとめたものである。
1貧しいひとを見つける
1ー1貧しいひととは誰なのか?
誰かが貧しいひとを助けたがっていると仮定しなさい。どうすれば貧乏なひとは見つかるのだろうか? この問いは、避けがたい部分がある。なぜなら「貧しい」とは、背が高いとか美しいというように、想像力でつくられたカテゴリーにはいるものだからである。貧しいひとたちのことを話しているとき、自分たちが何を言おうとしているのか理解しているつもりになることがしばしばある。だが、貧困について機能するような定義に到達するには、個人の意志にもとづく選択がたくさん要求される。たとえば、私たちが覚悟をきめ、困難に立ち向かい、ある水準(貧困ライン)以下にある人々が貧しく、それ以外の人々は貧しくないと言うならば、どこに批評的な基準をおけばいいのかわからないだろう。それぞれの人にとって、何が基準になるのだろうか? 収入、消費、富のようなものが、確かに基準として挙げられるが、他にも考えることができるものがあることは明らかである。こうした事柄のなかでも、収入が一番自然に思えるかもしれないが、収入を測定する試みにも心配がではじめている。結局、収入とは多様である。とりわけ給料収入をもたない傾向にある貧しい人の収入は多様である。さらにその日暮らしの、あるいはその月暮らしの人々というものは予期されるものでもあり、検討すべきものである(毎週、一日休暇をとる商人のことを考えてみなさい)。そうしたその日暮らしの人々は、買ったり消費したりすることが可能なものに影響をあたえることはない(なぜなら、そうした人々は貯金を使ったり、あるいは借金をしたりするからである)。つまり商人のことを、休日にもとづいて収入をはかるせいで、貧乏人と呼ぶ危険もあるのである。
ここで、もう少し期間を長くして平均していけば助かる話だが、それは別の問題を生じてくる。人々は、数週間前あるいは数ヶ月前の出来事を思い出すことはまったく得意ではない。基本的な変化がたくさんあるような場合は尚更である。さらに自分の収入とは何であるのか理解することに苦労していることもわかる(月給をもらっている人々でもなければ、仕事によって生じる利益の価値を知らない人々の場合)。流入と流出の双方があるせいでもある(すなわち収入のことであり費用のことである)。さらに流入も、流出も同時には起きない(だから、この二つを比較する方法を理解しなくてはいけない)
こうした理由から、多くの経済学者は消費を測定することを好む。それは明らかに消費における変化のほうが、収入における変化より少ないためであり(消費における大きな揺れを避けようとする人々の好みを反映するからである)、その期間にわたる平均収入と密接に関係しているためである。だが、消費を測定するということには限度がある。貯金していない人と比べて、たくさん貯金している人が良好な生活状態にあると、私たちは意図的に過小評価してしまう。たとえ貯金していない人の方に未来が開けているとしてでもある。健康に関する支出について取り扱うことにも別の問題がある。すなわち消費を計算するとき、強制的なものであって選択の結果でないからといって健康への支払いを除外するべきなのだろうか。あるいはこの家族が健康問題について取り組むことができるからといって健康への支払いを含むべきものなのだろうか。(実際のところ、貧乏な家族こそ病気に耐えることを甘んじて受け入れなければならないかもしれないのである)
消費を測定するということは、収入を測定することより易しいことではあるが(人々の消費パターンというものは安定しており、そのため最近どのようにお金を使ったのか聞くという考えには、もっともなものがある)、王道とは言い難い。一人一人にとって、きわめて時間のかかるものになりかねない。消費しただろう品物の一覧表をつくって、一人一人に聞かないかぎり、前の週に何に消費したのか思い出すことは難しい。それに何を消費するかという決定には、男女の性差が影響する。たいていの場合、男性は家の修理にいくらかかるのかということについて知っているものであり、一方で女性は玉ねぎの値段がいくらするのかということをよく知っている。その結果、消費支出について知るためには、家庭内のすべての人に訊ねる必要がでてくる。
1ー2貧しさを確認するにはどうすればよいのか
収入にしても消費にしても正しく測定するには、多くの時間と苦心が必要とされるので、発展途上国のほとんどの政府が、貧困を定義するという問題に対して、乱暴に、そして急場しのぎで取り組んでいるとしても不思議ではない。発展途上国は消費や収入を直接測定する手段を探し求めることはしない。その代わりに用いる典型的なものとは、代用資産調査と呼ばれるものである。代用資産調査において家族は点数化されていくが、点数の基準となるものは、家族の生活基準の代わりになると考えられている数字の中でも、比較的小さな数をもとにしている。たとえばインドにおけるBPL(Below Poverty Line 貧困ライン以下)の人口が基準にしている点数化の法則とは以下のとおりである。家族の富の測定に比重をおく(土地を所有しているか、家はどんな種類のところに住んでいるか、家の中にはトイレがあるか等である)。生活状態を直接測定する(一日に二回、充実した食事をとっているか)。稼ぐ能力を測定する(成人の教育レベルやその仕事)。あるいは貧困への行動反応と呼ばれるものを点数化する(子供たちは学校に行っているのか、それとも働いているか)。メキシコの主要な福祉プログラムはオポチュニアードと呼ばれているが、このプログラムもインドと同じような指標を用いて、潜在的に存在する福祉プログラムの利益を受けるべきひとを特定していく。メキシコやインドのプログラムで用いられている指標は、家庭での部屋あたりの人数の加重平均、家長の年齢、養っている家族の割合、家長の教育レベルや職業、5歳から15歳の子供のうち学校に通っていない子供の数、12歳以下の子供の数、などのように単純な二つの変数が住居と家庭の資産価値を特徴づける。インドネシアの様々な公的援助プログラムも同様の指数を用いているが、もっと洗練された基準である。
このような基準がもつ強みとは、必要なデータが30分くらいで集められるということである。不利な点とは、私たちが望む結論へと到達しないかもしれないということである。インドネシア、ネパール、パキスタンからのデータには消費と資産価値の双方についての情報があり、そうした情報を使って、フィルマーとプリチェットが2001年に示したことが以下のことである。消費にもとづいて分類わけをした下位40%のグループのうち60%から65%にあたる者が、所有資産にもとづいて分類した下位40%のグループに入っていた。これは視点を変えて考えるなら、貧しい者のうち35から40%が不適切に分類され、おそらく資産を多く見積もられていたということになる。消費がいつも正しいと考える理由はないのである。
他にも興味深い点がある。指標として、具体的な富を用いると、測定するのが簡単だという利点もあるが、一方で不正に操ってしまうという欠点もある。もし私の家にもう一部屋たてることで、政府からの施しを受けるチャンスが減ることになると考えるなら、蓄えを金にしたまま使わないという選択肢を選ぶことだろう。子供を学校へ行かせるかどうかという判断をするとき、これは大きな問題になるだろう。子供を学校に通わせることに利益があると思っていない両親なら(後に不満はさらに大きくなる)、ためらうことなく子供に学校をやめさせ、公的な保護を受けている者の一覧にあるという自分たちの立場を守るかもしれない。
1-3異議を申し立てたい事柄
貧しいひとを定義するどんな方法でも、もちろん、その方法を用いるひとがその方法を用いて貧しい人を定義することを認めたときだけ役に立つのである。すでに述べたように、簡単な基準を用いるにしても、貧しいひとを定義することは大変な作業である。だが、こうした貧しさには、正しく理解するだけの強い根拠があるものか定かではない。生活保護の一覧に名前をのせる決定権をにぎるひとが、好意のみかえりとして何かを請求することは想像に難くない。もし本当に貧しくて支払いをする余裕がないとしても、生活保護の決定権をもつ人があなたの生活保護カードを横流ししてしまい、受けるべきでない人に渡してしまう。生活保護の基準について説明するときに、寛大になってしまうという自然な傾向もある。誰からも非難される危険がなければ、基準に達していないからといって相手を拒むことはないだろう。
こうした事柄と一致するものだが、インドにおける最近の研究で、貧しいひとの数とBPL(貧困ライン以下)カード所有者を比較して出した結論がある。それによれば、BPLカードを所有しているひとの方が、貧しい人の数よりも2300万人も多いということである。(NCAERが2007年に、タイムズ・オブ・インディアに報告)。国際的なNGOトランスパランスィ・インターナショナルが、インド・メディア研究センターと協力して行った別の研究でも、こうした目標設定の誤りについてもっと強く指摘している。トランスパランスィ・インターナショナルは家庭をランダムに選び出し、経済状態とBPLカードの所持の双方について質問をした。この研究によれば、実際にBPLの範囲にある家庭の2/3は、BPLカードを所有していた。彼らが使用した経済状態を測定する方法とは荒削りなものではある。それでも、先ほど述べたフィルマーとプリチェットのように、財産のデータを使って測定する研究よりは優れている。そうであるならば、実際のところ、この結果はひどいものではない。もちろん、その中には罪なこともあるが(2300万枚もの余計なカード)、これは貧しいグループのなかで、はっきり違いをつけようとすることが困難なことであり、おそらく意味がないことであるという事実を反映している。
しかしながらカルナタカからの更に詳しい研究報告は、このように親切に解釈することを阻むものである。2007年にアタナソバのバートランドとムライナサムが、カルナタカ州のライチュール地区にある173の村で、21世帯を対象にして調査した。それぞれの家庭で、政府によるBPL(貧困ライン以下)の分類を用いたデータを集め、そのデータをもとにして独自のBPLの一覧を作成した。対象となった村では、57%にあたる世帯にBPLカードが支給されていたが、実際、BPLカードの支給が妥当な家庭はわずか22%だった。さらに48 %の家庭が間違った分類をされて分けられていた。その中でわかる罪とは、BPLカードが支給されているが、それが妥当ではない家庭が41%あるということである。データの外に追いやられている罪とは、BPL支給が妥当であるにもかかわらず、支給されていない家庭が7%に近いということである。こうしたことが意味するものとは、BPLカード支給が妥当である家庭の1/3がカードを支給されていないということである。一方で、支給が妥当ではない家庭の1/2にBLPカードが支給されている。さらに心配なことに、富の代わりに収入を用いて測定すると、BPLカード支給が妥当でない家庭の中でも一番貧しい家庭は、BPLカードが支給される家庭ではない。とりわけBPL支給が妥当な範囲より少し上にいる者たちである。すなわち年収は12000ルピーと2000ルピーのあいだであるが、収入20000ルピーから25800ルピーある者には含まれない者たちである。だが、もっとも豊かな人々の中でも42%にあたる人々には(38000ルピー以上の収入がある者たち)、BPLカードを支給されている。カード支給が妥当ではない家庭が含まれている理由を調査すれば、村の役人と社会的につながっているという事実がもっともな予測変数として判明する。
1-4 貧しさの研究にもっと参加してみる
村のエリートが貧しさを証明して記録していくという事実は、なぜ人が変われば、貧しさへの取り組みが著しく異なってくるのかということを示す理由のひとつになるのかもしれない。なぜ(村のように)小さな社会なら、自分たちのなかで本当に貧しい者を見つけることができるという事実を利用しないのだろうか。そして一人一人の村人には歪曲したくなる理由がはっきりと十分にあるけれど、もし情報を十分にたくさん集めたら、歪曲したくなる理由もトーンダウンされるかもしれない。
インド最大のマイクロ・ファイナンス協会のバンダムは、こうした取り組みを活用して、彼らのウルトラ貧困プログラムの恩恵をうける人を決めた。このプログラムのもとで、マイクロ・クレディットの傘下に置かれた人々と同じくらいに貧しいと定義された家族には、「財産」という贈り物(牛が一頭であったり、山羊が二、三匹であったり、脱穀調整器であったりする)をしたり、短期の収入補助を与えた(財産から負債を払い終えるまでのあいだ)。このおかげで人々は悲惨な貧困から永遠に救われるかもしれないという希望をいだき、村の貧乏な人たちの中でも主流をなす人々の中にはいりはじめた。ウルトラ貧乏を定義するために、このプログラムを最初に提案したバングラディッシュのNGOのBRACによって研究された方法にしたがって、バンダンは参加型農村評価(PRAs)を村で実行した。PRAにおいては、村の様々な部門から抽出された最低でも12人の村人が一緒に座り、それぞれの家庭がどの居住地にいるのかという村の地図をうめた。それから家庭を、一番貧しいグループから一番豊かなグループまで六つのグループに分けた。PRA(参加型農村評価)の結果、バンダムは低く評価された家庭から、およそ30の家庭を選んだ。
バンダンの調査はここでとまらなかった。その後、この30の家庭について財産や他の情報をあつめ、最終的に10の家庭がウルトラ貧困のプログラムの対象となるように選んだ。しかしながら私たちは、とても貧しい人を対象とするPRAの効果について関心をもったが、ある点、PRAの効果はこの取り組みの有効性を証明している(2008年のバナジー、カトパデェー、デュフロ、サピロを参照)。PRAの下二つのグループに分けられた人々が所有する土地は、調査された他の人々より0.13エーカー少ないのだが、やがてこうした人々が所有する平均的な土地の所有とは、実際には0.11エーカーであることを知り仕方ないと思う。同じようなことだが、調査した村民のうち34%がいつも十分な食事をとっていないが、この割合はPRAの中でも一番貧しい二つのグループのあいだでは17%高くなる(結果として50%になる)。こうした家庭は学校教育も受けさせようとしないし、子供や障害のある家族には学校をやめさせようとする。
PRA(参加型農村評価)が役に立たない分野とは、消費の貧乏人を定義するときであるが、こうした村においてBPLカード(生活保護カード)も消費とは相関関係がないことに気がつく。しかしBPLカードと異なり、PRAは土地が十分ではないことを予測したり、十分な食事を二回とれないことを予測したりすることが可能である。
村人にはそのため、公共の福祉において、自分たちが使用することができる、あるいは使用しても構わない情報というものがある。とりわけ村人の情報というものは、貧しい人々のグループのなかでの区別を可能にするものかもしれない。
不幸なことに、少なくともこれらの村において、PRA(参加型農村評価)は私たちの調査の対象となった者のうち四分の一のデータを失ってしまい、そうした人々の名前はもうわからない。私たちの調査は意識して貧しい人に重点をあてているけれど、それはこうした人々が身近な問題と関連があるためである。基本的に数百人の村においても、「去る者」は「日々に疎し」のように見えるかもしれない。PRAは比較的適切でると判断した人々を分類しているが、見逃した人々はどうなのだろうか。
PRAの研究について更にもう一つ興味深いことがある。それはその取り組みが役に立つのは、平均的に貧しい人の定義づけではなく、ウルトラ貧乏にある人々を定義づけるということである。ほとんどの人がおそらく感じていることだが、ウルトラ貧乏な人より自分たちのほうが上位にあり、そのためノブレス・オブリージ(高い身分にともなう貧しい人を助ける義務)が生じ、こうした不幸な人を助けるという観点から考えるようになるということである。平均的に貧しい人を定義する場合、ほとんどの村人が感じることとは、他の人も同じように援助を受けるのがふさわしいということであり、そのため意見が一致しなかったり争いになったりする。
それにもかかわらず、こうした水先案内の試みの結果は大いに見込みのあるものなので、これらの事柄をもっと研究するべきである。おそらく二つの試みを行うべきであろう。まず、財産にもとづいて貧乏だという可能性のある人の一覧を考えてみなさい。それから村の人々に、優れた情報にもとづいてリストを書いてもらいなさい(忘れ去られる人々がでる危険を減らすためである)。これと同じような、異なる試みを混合しながら考えることができるだろう。進行中の研究では、レマ・ハンナ、ベン・オルケン、ジュリア・トビアス、そしてMITのアデュル・ラティフ・ジヤミール反貧困ラボからは私が加わり、ヴィヴイ・アトラスとジャマイカにある世界銀行の彼女のチームが考えた実験とは、調査の効率を厳しく比較するためのものであり、貧しさを定義するための方法であり、こうした複数の試みを研究するものである。
1-5セルフ・ターゲッティング(自分で設定した目標)
目標設定の代わりとなるものが、セルフ・ターゲッティング(自分で設定した目標)である。セルフ・ターゲッティングという考え方は、もちろん新しいものではない。悪名高いヴイクトリア時代の貧しい家について、スクルージーは誉めたものの、クリスマス・キャロルにでてくる憐れみ深い紳士が言った「多くの者はそこに行くことはできないが、そこに行くくらいなら死んだ方がましだろう」という言葉は、まさにそのとおりだろう。あまりにも悲惨な場所なので、頼みとするものがない絶望的なまでに貧しい者だけが行こうとするだろう。最近、インドで国立農村雇用計画(NREGS)というものが打ち出された。その計画は、農村の家庭すべてに、技術を必要としない公共部門の労働者として、最低賃金で100日のあいだ(雇用を探す15日もふくむ)村で働く資格をあたえるというものである。この計画はこうした方向にむかうための、まさに最大の努力となるだろう。
この計画の背後にある理論とは、よく知られたものである。目標の設定が必要なのではない。もっとましな選択肢がない人々だけが、排水溝を掘り、レンガを運ぶなどの示された仕事をやりたがるだろう。それが必要にもとづいた仕事であるという事実のせいで、仕事を探すのに誰の許可も必要としないことになる。これには柔軟だという長所がある。極貧の多くは一過性のものであり、予測できないものである。たとえば家族のなかの収入の稼ぎ手が思いがけず病気になると、家族がBPLとして分類されるのには長い時間がかかるが、働く権利は求める者のために、いつでもあるということなのである。
不都合な点もはっきりしている。家族に肉体労働をできる者が誰もいなければ、どうなるのだろうか。さらに労働とは、社会的な富である。貧しいということを証明するために排水溝を掘らせても、排水溝を掘ってもらいたいと思わない限り、それは勿論むだなことになる。排水溝が欲しいのではなく、誰が貧乏なのかということを知りたいのであれば、お金をあげて生産的なことをさせればいい。NREGSの文書にある元々の重要な部分とは、労働力を投資して村の公共資産をつくる際、村が何を必要としているのか知ることにあるのである。
汚職もまた難題である。これはいつものことであるが、NRGESが無理にやらせているように思われてしまい、そのため固定予算がないという事実がとりわけ、余計な名前をくわえてしまう。これは批判屋が話題にあげる偽の総員名簿の問題である(総員名簿にはNRGESの業務が記録されている)。こうした理由からプログラムが要求するのは、すべての総員名簿を目につくところに展示することであり、またプログラムの支援者は社会の会計監査と呼ばれるものをかなり重視している。こうした会計監査のあいだに、関心のあるボランティアは総員名簿に名前がある人々を見つけようと試み、また、そうした人々に支払要求を受けたかどうか尋ねるのである。
こうした会計監査により、NREGSを実施していく途中において、かなりの不正があったことが明らかになった。シャールカンド州において、アトランダムに選ばれた五つの村にアラーハーバード大学の研究者が社会監査を行い、その結果、お金の三分の一がなくなっていることに気がついた(2008年、ドレーズ、ケーラ、シダータ)。さらに怖ろしいことに、シャールカンドの社会監査に関わった活動家の一人が殺害されたが、おそらく監査によって明るみになったことと関係があるのだろう。一方で、シャティーガでアトランダムに選ばれた9個のプロジェクトでは、請求された賃金の支払いの95%が実際になされていた。
5%がうまくいくように見え、3分の1はそう見えないので、水準点をどこにおくべきか明確ではない。これはよく耳にすることだが、「プログラムが十分機能していない」という批判にともなってくる問題である。インドの監察官や報告長は、政府の組織からプログラムの監督業務を任せられているが、プログラムに登録した者のうち3.2%が実際に許可された100日間ずっと働くが、平均すると登録家庭はそれより20日ほど働く日が少なかった。これを受け、プログラムを運営している農村開発省も指摘したが、プログラムに実際に参加している家族の(つまり実際に働いた家族)働いた日数の平均は40日ほどであり、100日すべて働いたのは10%である。
しかし、どのようにして40日(あるいは100日すべて働いた家族が10%)が多すぎる、または少なすぎると言うのだろうか。もし誰もこうした仕事を引き受けることにならなくても、NREGAの最低賃金の仕事があるおかげで民間の賃金も押し上げられて、人々が民間で働き続けることになれば、成功したといっていいだろう。もし誰も仕事を引き受けなくても、必要なときに仕事があるという保証のおかげで、人々は利益というリスクについて心配もしなければ、果敢に立ち向かおうとする。反対に、すべての人がNRGAの仕事をやりたがっても、100日の仕事につくことができる人が50%しかいなければ、深く失望してしまうだろう。先ほど言及したCAGのレポートでは、需要が満たされていないので、プログラムに人手が足りていないと非難している。だが、それがどれ程なのかはわからない。
前述した西部での調査で発見されたことだが、調査対象の村では、ジョブ・カードを使って貧乏になることを予言できなない(最低賃金ながら技術のいらない仕事につけるジョブ・カードは、このプログラムに登録することで手にいれることができる)。このプログラムがかなり目標からずれたものだということになるのだろうか。あるいは保障のために皆がジョブ・カードを欲しがるということなのだろうか。だが実際には、二者択一を迫られたときのみ、ジョブカードを使うつもりでいるのではないだろうか。
さらに重要なことがある。たとえ目標設定が妥当なものであり、漏れていく人も他のプログラムと同じ程度であるとしてでもだ。どうすれば、お金を稼ぐために輪を飛び越えていく価値があるとわかるのだろうか。言い換えれば、こういうことである。プログラムの労働から稼ぐ資産には、時と努力をかける価値があると確信しているから、適切な目標を設定するために話し合ってもいいと考えたのである。
もしプログラムがきびしく評価されていれば、大半が責任をとらされているだろう(NRGSに参加しない様々なグループの詳細な調査もあわせて)。だが先ほどの国中にプログラムを広げようとする方針からも、インドには、こうした評価が根づかないということになる。すなわち自分で目標を設定するということは、トラブルを自由に話し合う場にするという考えが根づかないということなのである。
1-6プログラムの基準を設定してから実行することの大切さ
インド政府がおこなっている目標を設定したプログラムのなかでも最大のものは、ターゲッティッド公共分配計画(TPDS)であるが、その計画のもとでBPL(貧困ライン以下)の家庭は、村のフェア・プライス・ショップと呼ばれているところから、支給された穀物とその他の食料を購入することができる。フェア・プライス・ショップは、その代わりとして近くの政府の倉庫から供給をうける。このプログラムについて、最近、政府の財務省が次のように語った。「およそ58%の支給された穀物が、対象とされるグループにまで行き渡らない。そうした事例のうち36%以上が、流通過程で流用されます。謹んで意見を伺いたいのですが、インドの貧しい人々は公立学校のすばらしい教育に値しないのでしょうか。貧しい人々が貧弱な資格さえ奪われるのを、座ったまま無力に見ていられるのでしょうか。」
財務省の役人が引用した数字で目立つことは(最近、政府が自らのプログラムを評価するためにつくった組織の報告)、最大の漏洩の原因とは、上記のことからもわかるようにBPLカード所有が適切に設定されていないからではない。穀類を途中で、そのまま盗んでしまうからなのである。漏洩36%のうち、20%とは輸送の途中のことである。一方で、そのほかの16%が、幽霊のBPLカード所有者、すなわち存在していない人へのカード発行である。
報告書では、いわゆる「イクスクルージョン・エラー(誤差を除外する)」という手段を提供している。こうして出された数字によれば、TPDSから食料の支給を受けているのは、BPLカード所有者のうち僅か57%にすぎない。言い換えるなら、このおびただしい食料の漏洩が、貧しい人々に届く費用になっているとは、とても言い難いのである。
一方でこれまで論じてきたように、基準を設定することは難しいことではあるが、横流しを防ごうとする政治的な意志があるのに、政府がそうできないのだと考えることは難しい。少なくともタミ・ナヅとウェスト・ベンガルというインドの二つの州では、盗みの割合は20%以下だった。レイニカとスベンソンによるウガンダの教育部門での漏洩の研究から、この疑いに対して策が講じられてきている。1995年には、中央政府から学校に送られたお金のうち、学校に届いたのは僅か20%だけだった。2011年には、政府は費やしてきたお金の公表も含め、多くの結果を公表し、漏洩は20%にまで下がった。
政治的な阻止力が働かないのは、基準を設定されたプログラムであり、貧しくない人を公にしめだしてるという事実からきているのであろうか。もし、それが原因であり、基準を設定することでは不十分に見えるとしたら、基準の設定をあきらめたほうが賢明だろう。こうすれば、除外されていた誤差が取り除かれることになり、また政治への影響力が大きい貧しくない人々をプログラムに近づけることにもなるだろう。