2018.05 隙間読書 泉鏡花「縷紅新草」

初出:1939年(昭和14年)7月「中央公論」に発表

泉鏡花が亡くなる直前に発表した65歳のときの作品。


この作品を発表してから、鏡花は癌性肺腫瘍のため亡くなる。おそらく死を予感し、痛みに耐えながら書いたのでは…と思われるこの作品は、まず死者を迎える盂蘭盆の風景が美しく語られている。

「去ぬる…いやいや、いつの年も」ではじまる以下の文は、「過去においては、いやいや、いつの時代にも」この美しい世界に戻ってきますように…という鏡花の思いを感じる。

去(さん)ぬる…いやいや、いつの年も、盂蘭盆(うらぼん)に墓地へ燈篭を供えて、心ばかり小さな燈(あかり)を灯すのは、このあたりすべてかわりなく、親類一門、それぞれ知己(ちかづき)の新仏へ志のやりとりをするから、十三日、迎火を焚く夜からは、寺々の卵塔は申すまでもない、野に山に、標石(しめいし)奥津城(おくつき)のある処、昔を今に思い出したような無縁仏、古塚までも、かすかなしめっぽい苔の花が、ちらちらと切燈籠(きりこ)に咲いて、地(つち)の下の、」仄白(ほのじろ)い寂しい亡霊(もうれい)の道が、草がくれ木の葉がくれに、暗夜には著(しる)く、月には幽(かす)けく、冥々として顕れる。

金沢のほうには、切灯籠(きりこ)という盆の提灯をつるす習慣があるそうだ。その明かりがてらす亡霊の道の美しさ、寂しさよ。


以下の文は、死を前にした鏡花の正直な思いではないだろうか。

薄情とは言われまいが、世帯の苦労に、朝夕は、細く刻んでも、日は遠い。年月が余り隔ると、目前(めのまえ)の菊日和も、遠い花の霞になって、夢の朧(おぼろ)が消えて行く。

「朝夕は、細かく刻んでも、日は遠い」の意味は何だろうかと立ちどまってしまう。想像だけれど、「日々その瞬間のことは一生懸命だけれど、一日一月と考えてみると何をしていたのやら?」ではないかと考えてみた。


さてタイトルの「縷紅新草」だが、出てくるのはタイトルの一回だけである。そして縷紅草という植物はあっても、縷紅新草はない。

縷紅草は朱色の花がさく蔓性の植物のようである。

縷紅草からイメージされる糸のような感じ、朱色のイメージは作品中に何度も繰り返される。繰返される糸や朱色のイメージを読んでいるうちに、鏡花は自分が愛した世界が美しさを失わずに、新しいかたちとなって再生されるように…との思いをこめて、「縷紅新草」とつけたのではないだろうか…という気がしてきた。


まず、初路を身投げをして生きのびた男の名前は「辻町糸七」である。生きのびて初路の思い出をかたり、彼女の墓をやさしく扱う男の名前に「糸」を使ったことに、鏡花の思いがあるのでは…。死を前にして、自分と後世をつなぐ糸の存在を意識したのでは…という気がした。


糸七が東京へ発つ前、身投げをした初路の墓参りに切り子灯籠をたむけにくると、お米の母、お京と遭遇。後ずさりをする糸七を追いかけながら、お京はこう言いながら、糸で頬をなでる。

「ほら、紅い糸を持ってきましたよ。

 縁結びにー

 それとも白いのがよかったかしら、…

 相手は幻だから…」

現世の人間が縫う糸は赤い糸、幻の相手との縁を結ぶ糸は白い糸…ここでも糸のイメージが美しく反芻されている。


県の観光協会が、身投げした女工、初路の記念碑をたてようとする話も挿入されている。ここでも糸がイメージされている。

「糸塚、糸巻塚、どっちにしようとかっていってるところ」

「どっちにしろ、友禅の(染)に対する(糸)なんだろう。」


「あの方、ハンケチの工場へ通って、縫取をしていらしってさ、それが原因(もと)で、あんな事になったんですもの。糸も紅糸からですわ」

身投げした娘、初路は千五百石のお邸のひとり娘であったが、廃藩置県で家は没落、両親も死んでしまい、工場にかよってハンカチの刺繍をしていた。「細い、かやつり草を、青く縁へとって、その片端、はんけつの雪のような地へ赤蜻蛉を二つ

初路が刺繍したハンケチは評判がよかったが、そのせいで妬みをかい、「肌のしろさも浅ましや  /  白い絹地の赤蜻蛉 / 雪にもみじとあざむけど、/ 世間稲妻、目が光る。」と唄になって囃し立てられる。お嬢様育ちの初路は追いつめられた。


「縷紅新草」で繰り返されるもう一つのイメージがある。それは蜻蛉である。墓を乱暴にあつかう人夫たちには脅かすかのように、蜻蛉の大群はあらわれる。

「蜻蛉だあ。」

「幽霊蜻蛉ですだアい」

初路の墓に縄をかけ手荒く動かそうとしたら、赤蜻蛉の大群におそわれ怯える人夫たち。


いっぽう糸七とお米が語る蜻蛉の話は何とも美しい。

おはぐろとんぼ、黒とんぼ。また、何とかいったっけ。漆のような真黒な羽のひらひらする、繊(ほそ)く青い、たしか河原蜻蛉とも云ったと思うが、あの事じゃないかね。」

黒いのは精霊蜻蛉ともいいますわ。幽霊だなんのって、あの爺い。


最後の文も美しいと思いつつ、ハタと意味を考える。見えているのは誰の目に…なのかと? 糸七とお米か? 不特定の読者か?それとも書き手の鏡花自身の目にか?

あの墓石を寄せかけた、塚の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、少しずつ高くなり、裏山へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉が静(そっ)と動いて、女の影が…二人見えた。

柄にかけてあった提灯が山門からだと高く見える…の意味かと思ったけど、もしかしたら提灯そのものが動いている怪奇現象のように見えているのだろうか?

そして「女の影が…二人見えた」とは?

最初は「二人(糸七とお米)に見えた」なのだろうかと思ったけど、そのまま「(女が)二人見えた」なのではないかと。二人の女とは、お米の母、お京と初路なのか? それとも鏡花にとっての二人の女性、母とすず夫人なのだろうか…?

答えは分からないけれど、死を前にした鏡花の目にみえた景色が美しいものであったことに安堵して頁をとじる。

読了日:2018年5月27日

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