丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十二月二十五日「私は札束だ」を読む
十二月二十五日は「私は札束だ」と、リゾート開発計画をもちかける胡散臭い女たちが、世一の家に挨拶代わりに持ってきた札束が語る。
慎ましい暮らしに耐えてきた世一の父親。分厚い札束を目の前にした瞬間、あっけなく屈してしまう心が「手もなく叩き伏せられてしまい」という言葉によく表れている。
私は札束だ、
どちらかと言えば貧しい家庭に生まれ
長年薄給に甘んじてきた家族を支えてきた男
そんな彼の度肝を抜く
恐ろしいまでに分厚い札束だ。
丘の家の主人は
努めて冷静を装ってみたものの
私が秘める途轍もない威力に
手もなく叩き伏せられてしまい、
(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』202ページ)
それにしても江戸時代、浄瑠璃本の作者たちは作品でふんだんに金について言及しながら、文章の美しさを失わなかった。
そして金という人間が苦しめられる根本を追求することで、人間の有り様を鋭く見つめているように思う。
現代の小説で金について言及する作品があまりないのはなぜなのか?江戸時代と同じように金に翻弄されていると思うのだが。
そう言うところに小説が生身の人間の有り様から遠い存在になってしまっている理由がのでは……という気もする。