関係のある対象から喚起される情熱がすべて礼儀正しいものであるということは、観察者が理解できる程度の情熱だということでもある。明らかに、平凡な情熱にちがいない。もし、その情熱が高すぎても、低すぎても、観察者はその情熱を追体験することはできない。個人の不運や損害への悲しみや怒りは高いものとなりがちかだが、そもそも大半の人がそうなのである。さらに加えるなら、これはあまりあり得ないことかもしれないが、怒りや悲しみの程度が低すぎることもある。この過剰な感情のことを、弱さと名づけたり、怒りと名づけたりする。また欠点のことを、愚かさと呼んだり、無関心とか精神の不足と呼んだりする。そうした感情を追体験することは出来ない。だが、そうした感情を見て驚いたり、困惑したりすることはある。(1.Ⅱ.1)