自然が二つの性を結びつける情熱も、これと同じケースなのである。一般的なことだが、すべての情熱のなかで最も猛々しく、またそのなかでも強く表現される情熱がすべて、ときおり不作法になるものである。人と神の法によって、まったく悪意がないために、極端な耽溺が認められている人のあいだでにおいてでさえ不作法になるのである。しかしながら、こうした情熱にすら、ある程度、共感があるようにみえる。男に対して話すようにして女に話すことは不適切である。女という集団は、男よりも陽気で、からかうことが多く、もっと優しいものだから、私たちを奮い立たせることが期待される。だから、この魅力的な性に対してすっかり無感覚になるということは、同性に向かい合うときにおいても、男を侮蔑に値するものにしてしまう。(1.Ⅱ.4)