アダム・スミス道徳感情論 1.Ⅱ.21 私たちは情熱を感じる人にも共感するし、情熱に反対する人にも共感する

 別な情熱というものもあり、それは想像力に由来するものである。だが、その情熱を追体験し、感じがよくて、適切なものとしてとらえる前にしておくべきことがある。それは自制に欠けた本性から生じるレベルにまで、情熱のレベルを低く下げることである。情熱とは嫌悪の情であったり、怒りであったりするが、それぞれすべての情熱に調整がくわえられている。そうした全ての情熱に関して言えば、私たちの共感は二つの立場に分けられ、情熱を感じる人と情熱に反対する人の間に分けられる。こうした二つの立場にある人の私欲とは、まったく逆である。情熱を感じている人への共感から駆り立てられて求めるものが何であろうと、もう片方の立場の人に同情するということは、恐怖へとつながることである。二つの立場の人が共に友であるならば、その双方のことを心配する。一方が苦しむかもしれない恐怖を考えると、他方が苦しんできた怒りはしずまることになる。挑発をうけている人に共感はしても、その人をかりたてる情熱には共感しないものである。元々の感情に比べると、共感する感情の方が劣るという一般的な理由のせいだけでない。共感にはよくある特別な理由のせいである。すなわち、もう片方の立場の人に対しても、逆の形で共感するからである。怒りを感じがよく、好ましいものにしてしまう前にするべきことがある。怒りという感情を卑しめ、おとしめることで、他の情熱ではなく、怒りが自然と生じてくるようにすることなのである。(1..21

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