「たしかに」アイザックおじさんはいった。「つめたい家族もいれば、心あたたまる家族もいる。家族によって違いはいろいろある。こちらのミスター・メイをみてください。べつに血のつながった家族ではないんですよ。私の姪が結婚して、その義理の父親になったというわけです。でも、なんて優しいことか。彼の息子は技師で、あなたと同じ職業についていました、ミスター・バトソン。メイドメントで取りつけ工をしていました。でも私の姪を未亡人にしてしまいましたが。歯車に上着の裾をまきこまれてね。ミスター・メイはどうしたと思います? 心やさしいところをみせてくれたのです。姪とその娘をここに連れてきたのですよ、まあ、古い住まいながらも、彼が自由にできるところですからね。そういうわけで、ここにいるわけです。おわかりになりましたか?」
アイザックおじさんが信条としていることだが、あまり重要ではない人物については、誰であろうとも、優れたところについて詳述できなくても、気にかけないことにしていた。たとえ近づきになるかもしれない人物だとしてでもある。信頼するに値する優れたところがあるとしても気にかけない。その人物が実際に目の前にいたとしても、いっこうにかまわない。
“Ah,” observed Uncle Isaac, “some fam’lies is unnachral an’ some is nachral, an’ there’s a deal o’ difference between ‘em. Look at Mr. May now. ‘E ain’t altogether in my family, though my niece’s father-in-law by marriage. But what nachralness! His son was a engineer in yer own trade, Mr. Butson,—fitter at Maidment’s. ‘E left my niece a widder, cons’kence of a coat-tail in a cog wheel. What does Mr. May do? Why ‘e shows ‘is nachralness. ‘E brings ‘er an’ ‘er children down ‘ere on ‘is own free’old residence, an’ cons’kently—’ere they are. Look at that!”
It was a principle with Uncle Isaac to neglect no opportunity of reciting at large the excellences of any person of the smallest importance with whom he might be acquainted; or the excellences which that person might be supposed to desire credit for: if in his actual presence, so much the better.