「夜叉ヶ池」
著者:泉鏡花
初出:大正二(1913)年
青空文庫
(カバー写真は講談社文庫)
今日も飽きずに鏡花である。毎日、鏡花でも飽きないだろう。
でも潔癖症の鏡花のエピソードの数々―階段をふく雑巾は、幾種類か決められていて、この雑巾は何段目用とか決めていた―を聞くたびに、鏡花がはるか昔の作家でよかったと思う。毎日、埃に埋もれて暮らしている私だもの、もしサイン会とかで鏡花に出会っていたなら、一瞬で嫌いになっただろう。
「夜叉ヶ池」は鏡花が初めて書いた戯曲。ドイツ語ができる仲間とドイツ浪漫派ゲアハルト・ハウプトマンの「沈鐘」を共訳したあと、その翻訳作業をとおしてドイツ浪漫派を自分の血肉にしてから書いた戯曲らしい。
粗筋は龍神伝説に恋をからめたもの。「友人を探して全国行脚の学僧・学円は、或る村で百合という美しい女性に出会う。姿をあらわした百合の夫こそ、学円が探している友人・萩原だった。萩原は夜叉ヶ池に封じ込められている龍神が、また姿をあらわさないように日に三度鐘をついている。学円と萩原が夜叉ヶ池を見に出かけている間に、百合は雨ごいの生贄にされそうに。危機一髪のところで学円・萩原は戻ってくるが、百合は死を選ぶ。萩原も鐘をつくのはやめ、死をえらぶ。すると激しい雨が村をながして村人は魚に、百合たちは龍神のよって復活する」
初めての戯曲だから、いわゆる鏡花らしいオーラは「海神別荘」や「天守物語」と比べるとやや低め。
「天守物語」のように、最初から、秋の七草の侍女たちが草花の釣りを楽しむ…という幻想的な場面で始まるわけでもない。また歌も、「天守物語」の「ここはどこの細道じゃ、細道じゃ、天神様の細道じゃ、細道じゃ」に比べると、「夜叉ヶ池」の「山を川にしょう」は哀切感にやや欠けるかなという気が。
でも人間界の価値観を超越しようとする鏡花の言葉は、後の作品と同じくらいにハイテンションである。
剣ヶ峰の恋人からふみをもらった龍神・白雪は、人間との約束を破り、恋人のもとへ行こうとする。白雪が動けば、嵐となって村に災害をもたらすと止める姥にむかって、白雪は人間のことを「尾のない猿ども」とののしり、こう言い放つ。
「義理や掟は、人間の勝手ずく、我と我が身をいましめの縄よ。…鬼、畜生、夜叉、悪鬼、毒蛇と言わるる我が身に、袖とて、褄(つま)とて、恋路を塞いで、遮る雲の一重もない!…先祖は先祖よ、親は親、お約束なり、盟誓(ちかい)なり、それは都合で遊ばした。人間とても年が経てば、ないがしろにする約束を、一呼吸(ひといき)早く私が破るに、何に憚る事がある! ああ、恋しい人のふみを抱いて、私は心も悩乱した、姥、許して!」
潔癖症の鏡花は、義理人情という手垢のついた価値観は許せないものだったのだろう。悩む瞬間もなく否定する。その価値観は私には古いものでもないし、妥協しようとしない姿勢も好きだなあと思いながら読んだ。でも日常生活の潔癖症は我慢できないけど。
読了日:2017年7月13日