『青鬼の褌を洗う女』
作者:坂口安吾
初出:昭和22年10月「愛と美」朝日新聞
なんとも不思議なタイトルである。思わず微笑んでしまうような、何だろうと首をかしげるような、それでいて忘れられない…そんな強い印象を与えるタイトルである。タイトルがよければ、あとはよし…短編の出来はタイトルにかかっているのだなあとまず思う。
それにしても主人公の私(サチ子)も、その母も、取り繕うことなく、自分の欲望を素直に語るが、なんとも強烈な女たちである。安吾作品では、女がでてきたら、まずは怪しいものとして疑わないといけないのかも…とくに復員殺人事件。
なんとも正直な母と娘である。ここまで正直になると、厚かましいを通り越して清々しく思えてくるから不思議である。
私は遊ぶことが好きで、貧乏がきらいであった。これだけは母と私は同じ思想であった。母自身がオメカケであるが、旦那の外にも男が二、三人おり、役者だの、何かのお師匠さんなどと遊ぶこともあるようだった。私にすすめてお金持の、気分の鷹揚な、そしてなるべく年寄のオメカケがよかろうという。お前のようなゼイタクな遊び好きは窮屈な女房などになれないよというのだが、たって女房になりたけりゃ、華族の長男か、千万円以上の財産家の長男の奥方になれという。特に長男でなければならぬというのである。名誉かお金か、どっちか自由にならなけりゃ窮屈な女房づとめの意味がないというのだ。
夫が戦争にかりだされて嘆き恨む女たちにもあっさり、ばっさり、こう語る。ここまで正直だと、なんとも潔い気がしてくる。
私は亭主なんてムダで高慢なウルサガタが戦争にかりだされて行ってしまえば、さぞ清々するだろうに、と思われるのに。
なんだ、なんだ、このグウタラぶりは。まるで私自身の行動を見ているようではないか? 昭和22年にも、私のようなグウタラ女がいたとは…。ちなみにサチ子は、安吾夫人をモデルにしたと言われている。
たとえば母も女中も用たしにでて私一人で留守番をしてお料理はお前が好きなようにこしらえておあがりといわれていても、私は冷蔵庫のお肉やお魚には手をつけずカンヅメをさがす、カンヅメがなければ御飯にカツブシだけ、その出来あがった御飯がなければ、あり合せのリンゴやカステラの切はしだけでも我慢していられる。ペコペコの空腹でも私はねころんで本を読んでいるのだ
でも最後までわからない。なぜタイトルが「青鬼の褌を洗う女」なのか? 最後、なぜ、こういう段落で終わるのか?
私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。
なぜ…こういう風に終わるのか分からないけれど、「青鬼の虎の皮の褌」「フンドシを干すのを忘れる」というユーモラスさ。
「眠ってしまう」「ゆさぶる」「にっこり」「カッコウだのホトトギスだの山鳩」「調子はずれの胴間声」というのどけさ。
「なんて退屈」「こんなに、なつかしい」という矛盾からくる不思議さ。
グウタラなサチ子が洗濯をしているというあり得ない景色。
いろいろ悲惨な人間模様も描きながら、最後の段落にはユーモラスさ、のどけさ、不思議さ、ありえない感がつまっていて、一気に晴れやかな気分で終わる。
タイトルという始まりもよし、最後もよし…の世界を堪能。
読了日:2017年11月1日