文豪山怪奇譚収録。
ひそやかにそっと近づいてくるものだからこそ怖い気配を感じるものもある。
主人公「私」が今にも雨が降りそうな鈴鹿峠を急いでいると、どこからか人の声がしてきたという冒頭部分である。
「何処で何を話しているのか、男か女か、若い者か老人か、坒(ちっ)とも判りませんが、人の話し声が私の頭の頭上で聞えます、ずっと上を向いて見ましたが、只崖の雑木がこんもりと頭の上へ冠(かぶ)さっているばかりです、山男とかいう者が私を何とかしようと云って相談でもしているのではあるまいかと、私は迷いました。誰れかが道連れが欲しいものだと思い思い私は更に足を早めました、私の足の早まるに連れて、話声は高くなって来ます、足を止めて見ると、話声も止まる、又歩き出すと又聞こえる、妙な事があるものだと思い思い、尚道を急ぐ中にポツリポツリと落ちて来ました、」
正体がわからないものに恐怖を感じているところに、ポツリポツリと落ちてくる雨。その雨のせいで恐怖が体感的なものへと、具体的なものへと変わる怖さ。
主人公をおびやかせた話声は、山男ではなく、男女の連れであった。恐怖が自分のすぐ近くに潜んでいるようでまた怖いものがある。
ここで平山蘆江は、この男女の身なりを詳細に述べているが、それがどういう格好だったのか、当時としてはどんな意味合いの格好だったのか…想像できない。
「男は藍微塵の素袷(すあわせ)に八端の三尺帯を締め、女は髪を馬の尻尾というのに結んで、弁慶の単衣、黒繻子の茶献上の腹合せの帯を手先さがりに引かけ、裾をぐっと片端折(はしおり)に腰紐へ挟み、裾へ白い腰巻きをだらりと見せて、二人とも跣足(はだし)で、番傘を相合傘という姿です、」
この男女をいくら追い越しても、なぜか先まわりされてしまう怖さ。
この怖さは宿屋の風呂場でクライマックスに達する。ポツリポツリという雨に誘われて始まった恐怖が、ずぶ濡れ湿気だらけの風呂場でクライマックスに達する。そうした書き方のせいで、恐怖の体感温度が一気に高まる。
そして恨まれる筋合いもないのに、なんの関わり合いもないのに、恨みをいだいて亡くなっていった者たちに遭遇する怖さよ。
よく考えてみると、主人公「私」はこの二人連れの幽霊とは何の縁もない。恨まれる筋合いもない。それなのに幽霊と遭遇してしまう。異界とは理由もなく、突然、私たちの前にひろがる存在なのかもしれない…と思いながら静かに頁をとじる。
読了日:2018年5月15日