2018.09 隙間読書 岡本綺堂「近松半二の死」

初出:文芸春秋昭和3年10月号


再読である。以前、読んだときは「岡本綺堂は古典演劇、なかでも文楽に思い入れがあったんだ」と驚いた。

そして再読の今、「先日、児玉竜一先生は講演のときに『近松没後が文楽の黄金期』と言われていたけれど、なんと岡本綺堂も児玉先生と同じスタンスではないか!?」と驚いたり、感嘆したり…を確かめたくて再読した。

岡本綺堂は半七親分や怪談のひとだけではなかった…もともとは劇作家であり劇評家でもあった。旧制中学時代から劇作家の道を志したようだけど、きっかけは何なのだろうか?どんな芝居を観たのだろうか?綺堂の目をとおして、この時代の、江戸時代の演劇をながめたいなあと思う。


綺堂は、近松半二に文楽(あやつり)が全盛期から衰退していく様をこう語らせている。

門左衛門先生が御在世の時は勿論、又そのあとを受け継いで出雲や松洛が「忠臣蔵」や「菅原」をかいた頃、操りは繁昌の絶頂であつた。「その當時を追想するやうに、はれやかな眼をする)大阪中の贔屓や盛り場から贈つて来るので、芝居の前に幟は林のように立つてゐる、積み物は山のやうに飾つてある。見物は近郷近在からも夜の明けないうちに押掛けて来る。道頓堀の人気はみな操りにあつまつて、歌舞伎は有れども無きが如しと云ふ有様…(又俄に嘆息する)それがどうだ。此頃ではまるで裏腹になつてしまつて、歌舞伎は一年ましに繁昌して、操りは有れども無きが如くではないか。それを思へば、出雲は好いときに死んだ。松洛は長生きをして「妹背山」をかく頃までは私の後見をしてくれたが、それも既うこの世にはゐない。いや、そんな愚痴を云つても始まらない。自分ひとりの力でも歌舞伎の奴等を蹴散らして再びあやつりの全盛時代にひき戻さなければならないと、わたしも一生懸命に働いた。


死を前にした半二は、浄瑠璃の書き方を習いに来ている商家の娘を呼び、自分にもしものことがあれば続きを書くように筋を教え、娘に近松加作という名前をさずける。

実際、半二の没年に書かれた作品は、半二と近松加作との合作になっている。この近松加作という作者はこの作品のみ、どういう人か記録は残っていないそうである。

謎の作者に想像をふくらませる綺堂の視点も面白いが、加作に気がつくなんて、綺堂は相当文楽が好きだったのだろう。もしかしたら綺堂の時代は、まだ加作について噂が残っていたのかもしれない。

劇作家、劇評家としての綺堂をもっと知りたいと思いつつ頁を閉じる。

2018.09.10読

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