初出1924年(大正13年)新青年増刊号
江戸川乱歩電子全集1より
「D坂の殺人事件」の乱歩先生の第一印象は、決して遠い大先生ではなかった…まるで私の身近にいそうな人物ではないかと親近感がわく。たとえば…
洋食ひと皿注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もお代りして、一時間も二時間もじっとしているのだ。
今ではレトロな感じの言い方だけれど、大正の頃は最先端をいく飲み物だったのでは…と乱歩先生の新しい物好きを感じる。
一杯の冷やしコーヒー
舞台が古本屋という設定も、乱歩先生の書物への愛情を見るかのようだ。
みすぼらしい場末の古本屋
それにしても大正の頃から、みすぼらしい古本屋なんてものがあったのだなあと不思議な気もした。
明智小五郎の本で埋もれた下宿の描写に、大正時代から「本の土手くずれ」なんて言葉があって、今も昔もこういう部屋はあるのだなあと驚く。「やわらかそうな本のうえに」と座布団がわりに本をすすめられてもと微笑。
四畳半の座敷が書物で埋まっているのだ。まん中のところに少し畳が見えるだけで、あとは本の山だ。四方の壁や襖にそって、下の方はほとんど部屋いっぱいに、上の方ほど幅が狭くなって天井の近くまで、四方から書物の土手がせまっている。ほかの道具などは何もない。一体彼はこの部屋でどうして寝るのだろうと疑われるほどだ。第一、主客二人のすわるところもない。うっかり身動きしようものなら、たちまち本の土手くずれで、おしつぶされてしまうかもしれない。
「どうも狭くっていけませんが、それに座布団がないのです。すみませんが、やわらかそうな本の上へでもすわってください」
でも、怖がりの乱歩先生はたしかに存在する。
日常の音が聞こえてくるなかで死体と向き合う時、乱歩先生はどちらが怖かったのだろうか…死体か、それともお構いなしに聞こえてくる日常の方か?
声高に話し合って、カラカラと日和下駄を引きずって行くのや、酒に酔って流行歌をどなって行くのや、しごく天下泰平なことだ。そして障子ひとえの家の中には、ひとりの女が惨殺されて横たわっている。なんという皮肉だろう。
だんだん乱歩先生が安いコーヒーでねばる身近な人物から、怖いという感覚が研ぎ澄まされた作家にかわっていく。
相手が透明に思えてくる怖さもこう語っている。
彼は最初から存在しなかったのか、それとも煙のように消えてしまったのか。
「D坂の殺人事件」に出てくる小説名は、とても大正のものとは思えない。乱歩先生がいかに知識欲旺盛だったかがうかがえる。
乱歩先生はこの知識をどう仕入れていたのだろうか。
とくに要となるサドは、当時、まだ翻訳がなかったのでは?当時の読者は読んでも、結末がよく分からなかったということはないだろうか?
谷崎潤一郎「途上」
ああした犯罪はまず発見されることはありませんよ。もっとも、あの小説では、探偵が発見したことになってますけれど、あれは作者のすばらしい想像力がつくりだした
ポー「モルグ街の殺人」
ドイル「スペックルド・バンド」 「レジデント・ペーシェント」
ルルー「黄色の部屋」
ミュンターベルヒ「心理学と犯罪」
マルキ・ド・サド
一杯のコーヒーでねばる乱歩先生は身近に思えたけれど、書物の知識は大乱歩先生ならではのもの…やはり遥かな存在だった。でも大正の頃とは違い、翻訳物も出版されている世だから、せめて私もこの作品に出てくる本を読もうと反省しつつ頁をとじる。
2018/09/27読了