2019.01 隙間読書 泉鏡花「草迷宮」

現代の私たち読者に、鏡花の文が難しく思えるのはなぜか……と考えながら読む。

語彙の難しさにくわえて、鏡花の文はあまり主語をはっきりとは書かない。主語であらわすかわりに、形容詞を何層にも重ねることで、主語にあたるものがどんなものなのか伝えようとする。その形容の積み重ねが鏡花の文の魅力でもあると同時に、いっぽうで現代の小説を読んでいくように「誰が、何をしているのか」と分析してしまうと、鏡花の文はどこか分かないものになってしまうのではないだろうか?


黒髪かけて、襟かけて、月の雫(しずく)がかかったような、裾(すそ)は捌(さば)けず、しっとりと爪尖(つまさ)き軽く、ものの居て腰を捧げて進むるごとく、底の知れない座敷をうしろに、果(はて)なき夜の暗さを引いたが、歩行(ある)くともなく立寄って、客僧に近寄る時、いつの間にか襖が開くと、左右に雪洞(ぼんぼり)が二つ並んで、敷居際に差向って、女の膝ばかりが控えて見える。

たとえば上の文では、主語は最初「女」だと思うが、「いつの間にか」の箇所から「室内」が主語に、「敷居際」からでは「女の膝」が主語にというように変化していくというように、ひとつの文の中に主語は明確には現れないまま、でも主語らしいものは変化しているのではないだろうか。主語にあたるものが変化していくにつれて形容する言葉も移ろい、その移り変わりに読んでいる者は夢幻郷にいる心地になる。それが鏡花の魅力ではないだろうか?


そんなふうに開き直って、鏡花の文をすっきり分かろうとすることは諦め、そのかわり場面場面の美しさ、面白さを楽しむ。たとえば最後の方に出てくる場面の面白さ。

縁の端近(はしぢか)に置いた手桶(ておけ)が、ひょい、と倒斛斗(さかとんぼ)に引(ひっ)くりかえると、ざぶりと水を溢(こぼ)しながら、アノ手でつかつかと歩行(ある)き出した。


そして鏡花の文は声に出して読んでも面白い。たとえば次の文では、妖しいもの達が大騒ぎしている様子を様々な音で描き、最後、静かになっていく移り変わりも巧みに表している。この文を声に出して読むとき、読み手の数だけ、それぞれが思い描く場面の面白さがあるのではないだろうか?

追掛けるのか、逃廻るのか、どたばた跳飛ぶ内、ドンドンドンドンと天井を下から上へ打抜くと、がらがらと棟木(むなぎ)が外れる、戸障子が鳴響く、地震だ、と突伏(つっぷ)したが、それなり寂(しん)として、静(しずか)になって、風の音もしなくなりました。


鏡花の文はいつまでもすっきり分かりそうにないが、それも鏡花の魅力だろうと開き直って、気に入った場面をゆっくり声にだして楽しんでいこう。そうすれば、いつか作品全体が楽しめるようになるかもと思いつつ頁をとじる

2019.1.1読了

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