哲学者たちは近年、感情の傾向について主に考えるようになり、そうした感情がおきる原因と自分たちとの関係に注意をはらわなくなってきている。しかしながら日常生活で、ほかの人のふるまいについて判断したり、そうした行動にむかわせる感情について判断したりするときは、感情の原因やその関わりについて、いつも考えている。激しく愛したり、悲しんだり、怒っているひとを咎め立てるとき、そうした感情が生じる破壊的な効果を考えるだけではない。そうした感情から、ほとんど見つけられない理由について考えるのだ。なにかを気にいるということで生じる利点は、さほど大きくない。不運もさほどひどいものではない。相手からの挑発もなみはずれたものではない。そうすうれば激しい感情を認めることもできるだろう。あらゆる点において感情と理由のつりあいがとれていたならば、私たちは身をゆだね、いわば激しい感情を認めただろう。(さりはま訳)