ヒマラヤスギの影におかれたエレーヌの椅子のかたわらには、柳の小枝で編まれたテーブルがおかれ、その上にはアフタヌーン・ティーの茶器一式が置かれていた。彼女の足元のクッションには、コートニー・ヨールがもたれかかっていたが、如才なく着飾り、若々しく優雅な姿は装飾的な静けさを象徴しているようで、人目をひくけど落ち着きのないトンボと同じくらいに装飾的であった。コーマスは入ることを許された前庭から、かなり間隔をあけて、フランネルを来たコートニーの姿を楽しんでいた。
二人の青年のあいだにある親しさのせいで、沈黙のうちに同じ女性のご機嫌をとるという状況でも、身近にせまる混乱に苦しめられることはなかった。それは趣味や考え方が同じことからきている友情でもなければ、仲間意識でもなく、どちらも相手のことを面白く思い、興味を抱いているという事実にあった。ヨールはしばらく、劇場通いの、ならず者だとコーマスを考えていた頃のように、愉快で、面白い相手だと考える一方で、エレーヌの好意をめぐる競争相手だとみなしていた。コーマスとしては、ヨールと接触を失うことを望んではいなかった。それと言うのも、ヨールにはいろいろと魅力があるが、なかでもコーマスの母親が許さないような長所を持ち合わせているからだった。彼女が、息子の友達の大半を認めていなければ、その付き合いも認めていないことは真実だったが、なかでもこの人物が、永遠につづく苛立ちの根源であるのは、相手が目立つ存在であり、多少なりとも、時流にのって公の生活で成功しているからであった。とりわけ苛立ちを感じるのは、自分の息子に思いつく限りの浪費をけしかけている若者が述べる文を読むときで、それには公の支出が思慮に欠けたものだということを、明晰に、鋭く攻撃していた。実際のところ、ヨールのこの若者への影響は、ごく僅かであった。コーマスは、たとえ世捨て人や貧民街イーストエンドの牧師のような人物と親しく交際するような状況に放り込まれたとしても、そうした人からも軽薄な出費や浮ついた会話を誘うことだろう。しかしながら、フランチェスカが母親の義務を果たして推察したところでは、独身仲間は息子を破滅させようと骨を折るのに熱心であるように思えるのだった。そのため、若い政治家は彼女にしてみれば、あからさまなまでに困惑してしまう原因になるのだった。だが彼女が認めないのと同じ程度に、コーマスも注意深く、彼に親近感をいだいては、その思いを披露してみるのだった。そうした親近感が存在し、むしろ途切れることなく続いていることに、この若い娘がかすかながら当惑するのは、その好意を求めるということは、親密感を急速に解体させる機会になるからであった。