『鯉の巴』
作者:小田仁二郎
初出:1953年「文學界」四月号
汐文社文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 恋
ひとり寂しい男「内助」が雌の鯉と仲良くなり、やがて二人?は共に食事をして寝床にはいるようになる…そんなふうにして十八年がたち、内助は鯉に物足りなさを覚えるように…人間の女を嫁にとって鯉の巴に見向きもしなくなる。嫉妬にかられた鯉の巴は…という話。二人?の心のうつろいが巧みにきりとられた恋愛短編である。
女鯉を馴らすのが、内助には、楽しみになった。池のふちにしゃがみ、呼びながら、えさをやる。鯉がよってくると、指先につまんだまま、えさを吸わせる。指さきがくすぐったい。内助はにやにや笑った。女鯉はよくなついた。水からあげても、手のうえで、えさを食べるようになった。女鯉には、いつのまにできたのか、左の鱗に、巴の模様が、はっきり浮きでていた。女らしい、可憐な模様であった。
女鯉の可憐さ、一方で内助のどこか異様なところ、肉欲的なところが印象に残る。
一夜、まっ暗ななかで、内助は巴をおかした。巴は声もださなかった。巴が、内助の胸に、すり寄ってきた。
十八年も、いっしょに活らしていながら、内部の冷たさを知ったのは、はじめてである。
内助は、しんから、なじむことができなかった。やめる気もなかった。独り身の内助は、その場その場で、巴との関係をつづけていった。
さらりさらりとした言い方だけれど、内助のいい加減さがよくあらわれている文である。
さらに内助は身勝手にも、巴にできないことを人間の女にもとめ、巴を捨てていく。調子のいい内助と哀れな鯉の巴が心に残る。
人間の女は、よいものだ。女房は口をきく。女房は暖かい。内助には、思わぬ、もうけもののような気がする。巴をのぞいて見ようともしなくなった。巴は池の底にかくれ、ちらりとも顔をのぞけない。もう巴は、内助の家族ではなくなった。内助に捨てられた女である。
巴は人間の美しい女となって内助の女房を脅かしにいく。最後、内助の乗る舟を巴が追いかける描写も怖ろしい。
にわかに、沖から波がわきたち、小舟をめがけて、おし寄せてきた。その波のしたを大きな生きものが、走ってくるようだ。もの凄く早い波が、いまにも小舟におそいかかり、内助もろとも、呑みこもうとする。浮き藻のなかから頭をだしたと思うと、一匹の大鯉が、内助の小舟にとび乗ってきた。まっ黒い眼で、内助をみつめ、くびをかしげ、尾をふるのだ。
最後の一文がすべてを雄弁に語るようで怖い。
家のなかには、女房の姿がなかった。
なかったといことは…そういうことなのだろうか。文章はシンプルで余計なことはいっさい語られていないが…そのせいで、かえって怖さを感じる作品だった。
読了日:2017年10月13日