「槍の権三重帷子」
作者:近松門左衛門
初出:1717年
今から三百年前の1717年七月、大阪の高麗橋付近で実際に起きた事件をもとに、その年のうちに近松門左衛門が浄瑠璃本に書きおろし、大阪竹本座で上演。その後、長く上演されることはなかったが、明治になって歌舞伎で復活。昭和30年(1955年)、文楽でも復活。
出てくる登場人物はどれも、これも情けない人物ばかり…なのに美しく思える不思議さ。情けない人たちを徹底的に情けなく描きながらも、そうは見えないのは近松門左衛門の語りのせいか、それとも近松の視線ゆえか?
主人公、槍の権三は一度寝たお雪から結婚をせまられてグズグズしている。お雪の乳母につかまって結婚を約束するも、茶道の師匠、市之進に気に入ってもらおうと、台子の秘伝を知るために師匠の婦人おさゐに接近、師匠の娘との結婚を承知する。ハンサムだけど許せない男である。
権三の友人、伴之丞もさらに嫌なやつである。ハンサムな権三に嫉妬して、すぐ嫌味を言うわ、ひがむわ、茶の湯の師匠の夫人、おさゐを誘惑しようとするわ…権三が師匠夫人から台子の秘密を教えてもらっているのを見て逆上、二人は不倫しているとでっちあげ夫に告げに行く。本当に許せないやつである。
ヒロイン「おさゐ」も糸の切れた凧のようにくるくる回りながら行動、なんとも頼りない存在、それとも意表外の行動にはしる女と見るべきか?
最初は働き者で奇麗好き、子供たち三人を可愛がる理想の妻、母として出てくる。それが娘、お菊の婿候補にハンサム、武術にもすぐれ、茶の道にもくわしい権三を…と考え始めたあたりから、良妻賢母の道から逸脱しはじめる。
「そなたがいやなら母が持つ、ほんに母が独り身ならば、人手に渡す権三様ぢゃないわいの」と子を寵愛の慎みなく、時の座興の戯言(ざれごと)も過去の悪世の縁ならめ
娘、お菊が「あんな年が十二歳も年上の権三おじさんなんて真っ平」と不平をいうと、おさゐは「お母さんが独身なら、権三様を誰にも渡さないワ」とエスカレートし始める。
そんな姿に近松は一言「過去の悪世の縁ならめ」と言う。これは「前世で悪い世に生きた結果なのだろう」と言っているのだろうか?責めたり、非難したりするでなく、さらりと「過去の悪世」と言われると、もうどうしようもないのかなあと許せてしまうような気がする。
「稀男(まれおとこ)なればこそ、わが身が連れ添ふ心にて、大事の娘に添わせるもの。悋気せいでは、妬かいでは。思えば憎や腹立ちや」
おさゐは権三がお雪という娘と婚約をしていたと知って嫉妬にかられる。娘のためか、自分のためか心のコントロールが利かなくなってくる。「めったにいないような良い男だから、自分が結婚するつもりになって、可愛い娘に連れ添わせようとしている。だから嫉妬をしてしまう。ああ憎たらしい、腹立たしい」
「思えば思えばわが身の悋気も、ほんに因果か病気であらうか、姑が婿の悋気とは世間にままある悪名の種、もうもうさらりと思ひ忘れう」
おさゐは自分の嫉妬を鎮めようとする。「思うんだけど、わたしが嫉妬深いのは、なにかの報いか、それとも病気なのかしら?姑が婿に嫉妬するって、世間でよく聞く悪い話だわ。もう、さらっと忘れてしまおう」
台子の秘密を伝授するために、おさゐは深夜、権三を数寄屋までよびだし、絵巻を見せて台子について伝授する。
舞台では、青い障子のむこうに二人の影が黒々と仲良く寄り添うように見え、なんとも美しい場面である。
おさゐは、権三がお雪という娘に紋を刺繍してもらった帯をしているのに気づき、また嫉妬にかられる。
「誰が縫うたサ誰がやつた、ええ噛みちぎつてしまう」
権三の帯をほどき投げ捨て、自分の帯を渡しながら、「蛇となって腰に巻きつく」と言う。娘のためと言いながら、夜、数寄屋に呼び寄せ、ついには「蛇となって」と迫る「おさゐ」。だんだん家庭的な女の歯車が狂っていく過程を、近松は見事に書いているなあと思う。
「ああ帯に名残がそれほど惜しいか、不承ながらこの帯なされ、一念の蛇となって腰に巻き付き離れぬ」
権三の友人、伴之丞がふたりの帯をひろって、「告げ口するぞう」と言いながら走り去る。
すると権三への嫉妬にかられていた「おさゐ」は、今度は夫、市之進が後ろ指をさされるようなことになったら可哀そうだと言い始める。「私たち二人、何にもしていないけど不義密通をしたということにでっちあげて、夫に妻敵(めがたき・・・不倫した妻とその相手を成敗すること)させてあげたら、まだ夫の面目がたもてるようにしてあげたいノ」と権三にお願いする。なんともフラフラする女である。
「東にござる市之進殿、女房を盗まれたと後ろ指さされては、人に面は合わされまい、とても死ぬべき命なり。ただいま二人が間男という不義者になり極めて市之進に討たれて、男の一分立てさせて下さつたらなう忝い」
もちろん権三は、浮気していないのに、浮気したふりするのは嫌だと消極的。
「不義もせぬに間男となることは、いかにしても口惜しい」
おさゐは「女房だと言って」と食い下がる。「こんな災難にあうお前さまも愛しいといえば愛しいけど、子もあって、二十年間つれそった夫のほうが大事ですもの」
こんな女に出会ったらたまらないと思うが、そこは人形と太夫さんの世界。この嫌な女が、少しも嫌に思えないから不思議。
「不承ながら今ここで女房ぢや夫ぢやと、一言言うて下さりませ。思わぬ難に名を流し、命を果たすお前も愛しいは愛しいが、三人の子をなした、二十年前の馴染みにわしゃ換えきれぬ」
「これも因果か、是非もなし。誠そなたは権三が女房」
「エエかたじけなや、お前は夫」
ついに二人は、夫婦宣言をする。おそらく「帯を噛みちぎる」と言っていたときから三十分も経過していないのに、おさゐの心の変化はくるくる目まぐるしい。この心の揺れをとらえた近松はすごい作家だなあと思う。
無明の酒の酔ひこれぞ冥途に通ひ樽抜けて浮世の修羅の道、逃れ行方も墨染の果てに、哀れを
帯を盗まれた二人は、垣根に伴之丞がはめて通路にした樽をぬけて逃げ出す。「真っ暗な闇のなかでの迷いは酒の酔いさながら、それは冥途を目指して樽をぬけていくけど、そこは浮世の修羅の道。逃げていく先には喪が待っている。我らを憐れんでくれ。」
「オオ」と言ふ声も紛れる音の鐘囃子、またも踊りの乱調に、消されてあはれ悪名の、声のみ残す妻敵討(めがたきうち)、語り伝えて筆の跡
伏見京橋まできた二人は、橋のうえの盆踊りの舞をみながら、市之進に討たれてしまう。この最後の言葉に、近松の思いがあふれているように思える。
「踊りの乱調」のように私たちの生活も時にふとした調子に乱れ、おさゐのように抑えがきかなくなることもあるのかもしれない。そうした二人を「あはれ」と思い、「語り伝えた」作品なのだと思う。
読了日:2017年11月7日