「文楽へのいざない」
作者:桐竹勘十郎
初出:2014年5月
淡交社
勘十郎さんが語る各作品の登場人物は、人形遣いの視点から語られている。そんな魅力があったのかと再発見、そんなご苦労があったとは…と知ること多々。
「本朝廿四孝」の「奥庭狐火の段」、八重垣姫に狐の霊が憑依するくだりについては
女方の足はふき先と言われる着物の裾の先を動かして歩くように見せますが、八重垣姫の場合、ふき先だけを細かく動かして飛んでみせます。バサバサ飛んだらいけません。
後半、人形を換えた後の左遣い、足遣いは主遣いと同じく出遣いで顔を出して遣います。これは難しい左、足を遣う人へのご褒美のようなもので、文楽ならでは演出です。
狐らしく見せるには、まず頭とシッポを下げること。しかし、それだけでは狐に見えない…。動物を遣うのもまた違った難しさがあるのです。
勘十郎さんが遣う狐は本当に怖くもあり、愛らしくもあり、不思議な魅力がある。狐になりきって役柄を考えているのだろう。
また泣く芝居、手負いの役も好きだと語る勘十郎さんの次の言葉から、作品の風景を、登場人物を頭のなかで再現されているのだなあと知る。
腹を突いてからの息遣いを研究したらおもしろいです。私は、体の角度を考えました。人間は、痛い方に傾くのです。左の腹に刀を刺したら体は右へは傾かない。人形でもリアルにした方がいいと思ってやらせてもらっています。
テレビドラマでも映画でも、ケガして死にそうになった人の役は真剣に見てしまいます。誰も死んだことないのに、想像で演じているわけですが、うまい人は「ほんまに死にかけてんのとちゃうかな」と思わせてくれます。息遣いとか、たまりません。無名の人でも、「この人ぜったい研究してはるわ」と、思うことがあります。
それから、いろいろな角度からものを見ること。そういうことも舞台では大事です。「三日月さまが…」と言ったときに、どこに三日月があるのか、自分で決めておかないと、お客様も「え、どこに?」てウロウロしてしまわれます。
こうした視点は本を読むときにも、翻訳をするときにも欠かせないと思うのだが、小説作品や翻訳ではなおざりにされていることが多い気がする。こうした視点がないと成立しないところが文楽の面白さだなあと思う。
読了日:2017年11月10日