「修善寺物語」の初出:1911(明治44)年 文芸倶楽部
「春の修善寺」の初出:1918(大正7)年 読売新聞
「幻想秘湯巡り」に出てきた岡本綺堂の「修善寺物語」を読んでみた。
修善寺の面作り師、夜叉王とそのふたりの娘かつら、かえでの物語。
修善寺に幽閉中の頼家から、夜叉王は頼家の面をつくるように頼まれるが何度作り直してもなぜか満足のいく面はできない。
夜叉王に催促にきた頼家は、上昇志向の高さゆえに独り身のかつらに魅せられ、面とともにかつらを側室として連れ帰る。
だが、その夜、北条の討手が襲撃。かつらは頼家の面をつけ敵をひきつけ瀕死の傷を負う。かつらの努力もむなしく頼家も死ぬ。
父、夜叉王のもとで息絶えようとするかつらは「たとい半時一時でも、将軍のおそばに召し出され、若狭の局という名をも給わるからは、これで出世の望みもかのうた。死んでもわたしは本望じゃ」と言う。
父、夜叉王も「わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい」と言う。
このふたりの立場や芸術への上昇志向は何なのだろうか? なぜ岡本綺堂は、こんなにエキセントリックな親子を書いたのだろうと「春の修善寺」を読んでみる。
「春の修善寺」の最後はこんなふうに終わる。
わたしが今無心に掻きまわしている古い灰の上にも、遣瀬ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。温泉場に来ているからといって、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にも色々の苦しい悲しい人間の魂が籠っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。
修禅寺の夜の鐘は春の夜の寒さを呼び出すばかりでなく、火鉢の灰の底から何物かを呼び出すかも知れない。
岡本綺堂が温泉場の火鉢の灰をかきまわしながら、会津出身の両親や祖父母の思いを考えているうちに夜叉王も、かつらも、灰の中から綺堂の思いと共に生まれてきたのだろうか。会津の武士の血が流れる綺堂のやるせなさがこんな作品を生み出したのだろうか?
読了日:2018年2月11日