「くろん坊」
作者 : 岡本綺堂
文豪山怪奇譚収録(山と渓谷社)
時は江戸末期の文久二年の秋、場所は越前の国のあたり。私の叔父は山道を歩いている途中で、若い僧が一人で暮らしている家を見つけた。僧は鎌倉で修行してきた者で、もう父も、母も、妹もこの世を去っているのだが、「ある物にひき留められて、どうしてもここを立ち去ることが出来なくなりました」と言う。
叔父は僧に頼みこみ一夜の宿を借りるが、寝ていると奇妙な音を耳にする。何の音だか正体は明らかでないけれど、その音の不気味さがひしひしと伝わり、この世の音ではないことが察せられるような文である。
「何となしにぞっとして、叔父はなおも耳をすましていると、それはどうしても笑うような声である。しかも生きた人間の声ではない。さりとて猿などの声でもないらしい。何か乾いた物と堅い物が打ち合っているように、あるいはかちかちと響き、あるいはからからとも響くらしいが、又あるときには何物かが笑っているようにも聞こえるのである。その笑い声ーもしそれが笑い声であるとすれば、決して愉快や満足の笑い声ではない。冷笑とか嘲笑とかいうたぐいのいやな笑い声である。いかにも冷たいような、うす気味の悪い笑い声である。その声はさのみ高くもないのであるが、深夜の山中、あたりが物凄いほど寂寞としているので、その声が耳に近づいてからからと聞こえるのである。」
このあたりには、くろん坊と呼ばれる猿でもない、人でもない生き物がいた。僧の両親くろん坊に仕事を頼むとき、ついうっかり娘の婿にと冗談で約束してしまい、それが悲劇を生んだ。
ある物にひき留められた僧の心境はいかに? 両親・妹、そしてくろん坊を哀れんでいるのだろうか?
からからという音が、その音がかなでられる光景が、いつまでも心から消えない。
2018年5月7日読