2018.05 隙間読書 泉鏡花「古貉」
古貉では、車麩が何度も繰り返し語られている.
そのイメージはだんだん幻想味をおびて回転しはじめ、やがて何とも気味の悪いものとなっていく。最後には「めぐる因果の小車」という言葉に収束される。
もちろん古貉で語られれている不思議な光景は車麩だけではない。三つ並んだ厠のうち、壊れて存在しないはずの真ん中の厠。そこから出てくる白い手。煮え湯をかけられた娘の悲劇。どれも怖い場面である。
でも「古貉」を読んで一番心に残るのは、繰り返される「車麩」のイメージである。金沢での生活でよく見かけただろう車麩だからこそ、親しみのある食べ物がだんだん不気味なものへ、異界へ結びついたものとなる怖さがあるのではないだろうか。
車麩でいっぱいになった天井…想像もつかないが、当時の乾物屋ではよく見かける光景だったのだろう。その光景を眺めているうちに、鏡花は「古貉」という作品を考えていったのだろうか?
「が、それが時雨でも誘いそうに、薄暗い店の天井は、輪にかがって、棒にして、揃えて掛けた、車麩で一杯であった。
『見事なものだ。村芝居の天井に、雨車を仕掛けた形で、妙に陰気だよ。』
やがて村雨がかかってくると同時に、車麩もだんだん別のものに見えてくる不思議さ。
「そうか、私はまた狐の糸工場かと思った。雨あしの白いのが、天井の車麩から、ずるずると降って来るようじゃあないか。」
車麩から狐の糸工場、そして椎の樹婆叉の糸車へ…鏡花の連想は広がっていき、その不思議なつながりも怪しくも楽しい。
「大昔から、その根に椎の樹婆叉というのが居て、事々に異霊妖変を顕す。徒然な時はいつも糸車を廻しているいるのだそうである。」
やがて車麩のイメージは、「因果車」なるものに変わっていく。因果車という語の哀しさ、怖さよ。
「椎の樹婆叉の話を聞くうちに、ふと見ると、天井の車麩にからんで、ちょろちょろと首と尾が顕れた。その上下に巻いて廻るのを、蛇が伝う、と見るとともに、車麩がくるくると動くようで、因果車が畝って通る。…で疎気(ぞっ)としたが、熟(じっ)と視ると、鼠か溝鼠(どぶねずみ)か、降る雨に、あくどく濡れて這っている。」
「現代―ある意味において―めぐる因果の小車などという事は、天井裏の車麩を鼠が伝うぐらいなものであろう。
待て、それとても不気味でない事はない。
魔は―鬼神は―あると見える。」
天井裏の車麩を鼠が伝う…「それだけで十分不気味です」…と鏡花先生に言いたい。ふだんの生活で食べている車麩が、これだけ不気味なイメージに変わっていくのだから、「魔は―鬼神は―ある」という言葉に頁をとじながら思わず頷いてしまう。
読了日:2018年5月13日
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