2018.10 隙間読書 世阿弥「敦盛」

日本古典文学全集58巻「謡曲集」より。

作者:世阿弥


最初、現代とは価値観が違いすぎると困惑しつつ読んだ。いくら敦盛の幽霊とはいえ、自分のことを弔ってくれたからと、命を奪った相手を許して感謝するものだろうか?

でも最後の詞章を繰り返し読んでいるうちに、少し世阿弥の気持ちに近づいたかも…と美しい錯覚にとらわれる。


まずは大体のあらすじから…。

熊谷の次郎直実は出家して、蓮生法師と名をあらため、自分が殺した平家の敦盛の菩提を弔いに一の谷へ行く。

そこに草刈男たちが来て話をしていくが、一人残った草刈男は自分が敦盛であることをほのめかして姿を消す。

連生法師が弔っていると、武将姿の敦盛があらわれ、平家の思い出を語り、弔ってくれたことに感謝して消えていく。

この最後の部分が謎…狭量な私には理解できなかったけど、でももしや…と思うようになった。


つひに討たれて失せし身の、因果は廻り合ひたり、敵はそれぞれと討たんとするに、仇をば恩にて、法事の念仏して弔はるれば、つひには共に生まるべき、同じ蓮(はちす)の漣生法師(れんせいほうし)、敵(かたき)にてはなかりけり。跡弔ひて賜(た)び給へ。跡とぶらひて賜(た)び給へ。

ついに討たれて死んだ。その身の、因果はめぐって 今ここであなたとめぐり合った、敵はそれだと思って討とうとしたら、仇を恩で、報じ 法事の念仏をとなえて弔ってくださるので、そうだとすると 最後にはともどもに その上で生まれるはずの、同じ蓮(はちす)の台の蓮生法師法師、あなたは敵ではなかったのだ、どうかわたくしの跡を弔ってください、跡を弔ってくださいませ。 (日本古典文学全集の現代語訳)

「つひには共に生まるべき」の箇所だけれど、「生まる」は「埋まる」と掛けているのではないだろうか。

「共に死んで地中の埋まる身だから」という裏の意味があるのではと想像してみると、少し「敵にてなかりけり」という言葉も理解できるように思う。

「同じ蓮(はちす)の」という詞章は、蓮の地中の根、地上の花の両方をさしているのではないだろうか。

「わたしと同じように、あなたも共に地中に葬られる身なのだから」と仄めかしつつ、幽霊が「跡弔ひて賜(た)び給へ」と言っているのでは…と考えてみたのだが、そんな意地の悪い幽霊はいないだろうか?

答えのでないまま頁をとじる。

2018/10/11読了

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