ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」第1巻1章(No.2)

訳)

ミス・ブルックには、粗末な服をまとうことで際立つ美しさがあった。その手も、腕も見事なかたちをしているのだから、イタリアの画家たちの目にうつった聖母マリアのように流行から離れた袖であろうが、そうした袖を着たところで問題はなかった。彼女の横顔も、背も、姿も、その地味な衣装ゆえに、いっそう威厳がそなわっているように見えた。田舎風の衣装ということもあって、その姿は聖書からの素晴らしい引用、あるいは現代の新聞のなかにまぎれこんだ古の詩という印象をあたえた。彼女は驚くほど賢明なものとして語られたが、そのときには姉妹のシーリアの方が世知にたけているという言葉が添えられるのであった。



英文)

(1)Miss Brooke had that kind of beauty which seems to be thrown into relief by poor dress. (2)Her hand and wrist were so finely formed that she could wear sleeves not less bare of style than those in which the Blessed Virgin appeared to Italian painters; and (3)her profile as well as her stature and bearing seemed to gain the more dignity from her plain garments, (4)which by the side of provincial fashion gave her the impressiveness of a fine quotation from the Bible, – or from one of our elder poets, – in a paragraph of to-day’s newspaper. She was usually spoken of as being remarkably clever, but with the addition that her sister Celia had more common-sense.



メモ)

1)

最初の文はミス・ブルック(ドロシア)の美しさを強調する文で、その美しさは粗末な服をまとうことで際立つ。服が彼女の美しさを作り出すのではなく、彼女の美しさが質素な服に価値をあたえていることに注意したい。

この冒頭の文は、エリオット自身の文学のスタイルを反映するものでもあって、これからの文学に対する疑問を提起している。エリオットの文学には「粗末な服をまとうことで際立つ美しさ」に該当するものがあるのではなかろうか?小説における「粗末な服装と」は何か?主題やスタイルの選択なのか?


2)

ジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィ「聖母マリア」(ナショナルギャラリー)

エリオットはミス・ブルックの美しさや服装を、イタリア絵画の聖母マリアと比較している。マリアの袖は簡素で(流行からかけ離れた)ものだが、彼女の腕そのものは美しい。


3)

James Tissot’s The Bunch of Lilacs, (1875) 

ドロシアは質素な衣服であらわれる。彼女は姉妹のシーリアのように、当時の女性としては標準的な女らしさを持ち合わせていなかった

当時の社会が女性たちに求めていたのは、上の絵のように心よりも外見を磨くことであった。ドロシアの「地味な衣装」は、彼女の関心がどこか他にあることを示唆している。


(4)

ドロシアの生まれついての美しさは質素な衣装と相対するものであり、それは聖書の言葉や詩が新聞の散文と相対するようなものである。つまり彼女の外見は言語のもっとも崇高なかたちである教令集や詩になぞらえられている。いっぽうで彼女の服装は、当時、言語の一番低俗な形だと考えられていた印刷された散文になぞらえられている。

ミス・ブルックは、この時代に属していない。彼女がもたらしてくるのは聖書のような古代、昔の詩のようにいつだか分からない時であって、現在の新聞とは対比をなすものである。

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