義太夫の魅力について、誰も語ったことがないような魅力的な表現をつかいながら、それでいて的確に語りかけてくる本である。この本を読めば、義太夫を聴いたことがない人でも、聴いてみたくなるだろう。
たとえば三味線と義太夫節の違いについてはこう説明する。この文を読みつつ舞台を思いだすと、たしかにそうだなあと納得してしまう。
三味線の音は、最早「物語を進めるための合の手」なんかではなく、語られる物語の情景や人の心理、物語全体の流れまでも「音」で表現します。それが「音楽」であるような義太夫節ですが、ぼんやり聞いていると、それは「音楽」ではなく、「時々音楽にもなるような不思議なもの」です。
(「義太夫を聴こう」34頁)
でも、義太夫節は「時々音楽にもなるようなもの」ではなくて、「”音楽でなくなっている”と思えるような間でも、ずっと”音楽”であることを持続させている音楽なのです。そういう「音楽」は他にあまりありません。(「義太夫を聴こう」34頁)
そして橋本がとらえる歌舞伎と人形浄瑠璃の違いの何と魅力的なことか!
人形浄瑠璃で表されているものは、たしかに「運命に翻弄される人間」だなあと思う。その翻弄される姿に、わたしたちは涙することもあれば笑うこともある。そうするうちに自然と頭をたれる気持ちになる。
人形浄瑠璃は韻文的で、歌舞伎は散文的です。喋らない人形に代わって、床の太夫が終始語り続けて、その横には三味線弾きがいます。そういう人形浄瑠璃は、終始音楽の中にいますが、人間が演じる歌舞伎は、人形浄瑠璃ほど、言葉をメロディアスに謳い上げることが出来ません。その点で散文的なのです。
(「義太夫を聴こう」134頁)
人形浄瑠璃、あるいはそれを語る義太夫節は、「運命」というものに翻弄される人間を語るもので、床の太夫と三味線は「人間のドラマを語る運命」です。歌舞伎の義太夫狂言にも、床の太夫と三味線は登場しますが、これは「運命に翻弄される人間」を演じる役者の動きを助ける補助的なものです。はっきり言ってしまえば、歌舞伎の舞台に「全体を統括する神」はいないが、物語進行すべてが太夫と三味線に委ねられた人形浄瑠璃の場合に「神」はいるのです。
(「義太夫を聴こう」135頁)
その他にも勉強になることが多々。最後、寛也さんとの対談で、「寺子屋 」で「忠義心のために自分の子供を殺すのには理由があるという橋本さんの言葉もそのひとつ。「江戸時代は、自分の子供に死なれた親がいっぱいいるから、共感できる」という橋本さん、寛也さんの説明が心に残る。
時間をかけて詞章をじっくり読んで義太夫を聴いてみたいと思いつつ、頁をとじる。
2019.02.15読了