荷風全集第18巻収録。
なお「女霊は誘う 文豪怪談傑作選・昭和篇 」(ちくま文庫) にも収録されているとのこと。
断腸亭日乗によれば1944年2月19日に寄稿、4月4日に脱稿、最初は「二人の客」という題であった。1946年9月5日筑摩書房初出、永井荷風が66歳のときの作品である。
この作品の登場人物「白井」のモデルである平井呈一が佐藤春夫に伴われて荷風宅を訪れたのは1935年2月2日。やがて荷風は平井の文学的教養をみとめ、人間嫌いの筈なのに平井とは二日に一度やりとりをするようになる。
だが1939年10月、平井ともうひとりの門下生・猪場毅による贋作事件が発覚。だが荷風はしばらく黙認にちかい態度をとっていたと言う。
事態が一変するのは断腸亭日常によれば1941年12月20日のこと。荷風は態度を一変、手のひらをかえしたように平井と絶交する。1944年2月から「来訪者」を書き始め、1946年に出版される。
なぜ黙認の期間が六年近くも長く続いたのに、急に絶交したのか?
1941年12月7日の真珠湾攻撃にはじまる第二次世界大戦への突入が契機なのではないだろうか?断腸亭の同年同月の記述をみても、日米開戦後、物資が急に不足していく様子が描かれている。
永井荷風が平井呈一、猪庭毅ふたりを贋作事件を理由に破門したのは日米開戦から12日後。荷風が開戦と共に急激に変化する世情を記した直後のことである。
永井荷風には、日米開戦後の日本で、英米文学の翻訳を手がけている平井呈一、そしてその周囲にいる自分がどういう辛い道をあゆむのか即座に判断、自衛のために破門したのではないだろうか?
たしか断腸亭日乗のどこかで戦況について「われに関係なし」と素っ気なく記してあったような記憶がある。外部には「われに関係なし」と言いながらも、エリート永井荷風は辛い状況に自分が追い込まれるのを避けようとしたのではないだろうか?
でも外部に「われに関係なし」と言っている荷風である。戦争が終わって「戦争のときに辛い立場になるのが嫌で平井と絶交した」と言われないように、贋作事件を盾に取ったのではないだろうか?あるいは荷風も戦時下で精神的にダメージをうけていたのかもしれない。
贋作事件で腹をたてている筈なのに、平井をモデルにした「白井」の描写は、作品の前半までは荷風の深い敬意と愛情を感じる描写で、生前寡黙だったという平井の素顔を伝えてくれる。いっぽうで後半は、荷風の「平井に災いあれ」という一念からの妄想にすぎない。
以下に前半の平井呈一についての描写を拾い上げる。平井への深い敬愛がうかがえる文もあれば、平井の家庭状況、経済状況を揶揄する文もあるが、平井の文学的素養への荷風の評価はたしかなものと思う。
白井は箱崎町の商家に生長し早稲田大学に学び、多く現代の英文小説を読んでいる。
( 荷風全集第18巻 「来訪者」 214頁)
ハーデーのテス、モーヂエーのトリルビーなどを捜して来てくれたのは箱崎で生長した白井である。
( 荷風全集第18巻 「来訪者」 214頁)
わたくしは白井ほど自分のことを語らない人には、今まで一度も逢つたことがない。その親類が新川で酒問屋をしている事、その細君は白井より一ッ年上で、その家は隣りあつて ゐ た。女は女学校、白井はまだ中学を出ないのに。いつか子供をこしらへ、其儘結婚したのだ ( 荷風全集第18巻 「来訪者」 216頁)
わたくしは白井の生活については、此等の事よりも、まだその他に是非とも知りたいと思つてゐる事があつた。それは白井が現時文壇の消息に精通して ゐ ながら、今日まで一度もその著作を新聞にも雑誌にも発表したことがないらしい。強ひて発表しようともせぬらしく頗悠々然として居られる理由が知りたいのであった。
わたくしは白井が英文学のみならず、江戸文学も相応に理解して居るが上に、殊に筆札を能くする事に於いては、現代の文士には絶えて見ることを得ないところでありながら、それにも係らず其名の世に顕れない事について、更に悲しむ様子も憤る様子もないのを見て、わたくしは心窃に驚嘆してゐたのであった。わたくしは白井の恬淡な態度を以て、震災前に病死したわたくしの畏友深川夜烏子に酷似してゐると思わねばならなかつた。
夜烏子(やうし)は明治三十年代に、今日昭和年代の文壇とは全然その風潮を異にしてゐた頃の文壇に、其名を限られた一部の人に知られてゐた文筆の士である。然るに白井は売名営利の風が一世を蔽うた現代に在つて、猶且明治時代の文士の如き清廉の風を失はずに超然としてゐる。夜烏子に対するよりも、わたくしは更に一層の敬意を払はなくてはならない。
( 荷風全集第18巻 「来訪者」 217頁)
木場も白井も身長は普通であるが痩立の体質は二人ともあまり強健ではないらしい。木場はいつも洋服、白井はいつも和服で、行儀よく物静かなことは白井は遙に木場に優つてゐた。来訪の際には必台所へ廻つて中音に、「御免下さい。白井で御在ます。」と言ふ。その声柄や語調は繁華な下町育の人に特有なもので、同じ東京生まれでも山の手の者とは、全く調子を異にしている。呉服屋小間物屋などに能く聞かれる声柄である。白井の特徴は其声の低いことと、蒼白な細面に隆起した鼻の形の極めて細く且つ段のついてゐることで、この二ッは電車などに乗つて乗客を見廻しても余り見かけない類のものである。わたくしの家は静な小径のはづれにあつて、わたくしの外、人が居ないので、日中でも木の葉の戦ぐ音の聞えるくらゐであるのに、白井の声は対談の際にも往々にして聞き取れないことがある。且つまた語るに言葉数が少く、冗談を言はず、いつもは己は黙して他人の語を傾聴すると云つたやうな態度をしてゐる。然しこの態度には現代の青年に折々見られるやうな、先輩に対する反感を伏蔵してゐる陰険な沈黙寡言の風は少しも認められない。文学に関して質問らしい事を言ふ時には、寒喧(かんけん)の挨拶よりも一層低い声で、且つ極めて何気ないやうな軽い調子で「その後何かお書きになりましたか。」或は「何かお読みになりましたか。」といふのである。
( 荷風全集第18巻 「来訪者」 220頁)
「来訪者」後半は事実とかけ離れ、荷風の妄想にちかい展開となっていく。だが、そのなかにも白井(平井呈一)の才能に期待していると思われる文がでてくる。
わたしは白井が鏡花風の小説をつくつたと云ふ事をきき、大に興味を催し、贋手紙の事なんぞは妬くそのままにして、俄に白井を尋ね怪談に関する文藝上のはなしがして見たくなつた。わたくしは鶴屋南北の四谷怪談を以て啻に江戸近世の戯曲中、最大の傑作となすばかりではない。日本の風土気候が伏蔵している郷土固有の神秘と恐怖とを捉へ来つて、完全に之を藝術化した民俗学的大長詩編だと信じてゐたからである。葛飾北斎と其流を汲んだ河鍋暁斎、月岡芳年等が好んで描いた妖怪幽霊の版画を以て世界的傑作となすならば、南北の四谷怪談は其藝術的価値に於て優るとも劣るところはない。然るに現代の若き文学者は此の如き民族的藝術が近き過去に出現してゐたことさへ殆ど忘却して顧ない傾がある。わたくしは白井がその創作の感興を忘れられたこの伝説から借り来つたことを聞いて、心ひそかに喜びに堪へなかつたのである。
( 荷風全集第18巻 「来訪者」 269頁)
「来訪者」は荷風が心許した大切な門弟、平井呈一の思い出を記し、その今後に期待する本であると同時に、そうした門弟を破門した真の理由「戦時下で英文学に詳しい平井と親しくしているのが嫌で破門した」をカモフラージュするための書ではないだろうか?
平井呈一はそうした師の立場を黙ってすべて受けとめ、自分によせられた期待だけをうけとめ「真夜中の檻」を書いたのでは? 荷風の文学では、未亡人との出会いがいかにもという小説になってしまうのに対し、鏡花的視点で書けばこうなるということを示そうとして「真夜中の檻」を書いたのではないだろうか?(2019.3.11読了)