フィナンシャルタイムズ2012年9月3日
私がどこでこの文を書いていると思われるだろうか。フィナンシャルタイムズ紙の机にむかってだろうか。それとも電車でもみくしゃにされながらだろうか。もしかすると私はキッチンのテーブルで書いているかもしれないし、プールサイドで書いているかもしれない。スーツを着ているかもしれないし、水着かもしれないし、パジャマなのかもしれない。可能性をあれこれ考え始めると、心から消し去ることが難しくなる。
ほとんどの職業において、シェフから外科医、警備員にいたるまで、在宅勤務は不可能である。しかし多くの仕事において在宅での勤務が実現可能になりつつある。おそらく在宅勤務が定着しつつあることは驚くべきことではないだろう。アメリカでは10パーセントの人々がときどき家で働いている。そして4パーセント以上の人々がだいたい在宅勤務で働いている。興味深いことだが、家での仕事が効果的なものかどうかということを私たちはよく知らない。さらに特定の産業に限定されるが、会社ごとに異なるやり方で在宅勤務を実践している。経営という考え方で包みこむやり方は、いまだに中世の医術と同じである。つまり広まりつつある考え方はたくさんあるが、何が効果的であり、何が迷信的なナンセンスなのか誰にも本当のところはわからないのである。
スタンフォード大学のエコノミストであるニコラス・ブルーム、ジェームズ・ライアン、ジョン・ロバート、ジン・ジェニー・ヤンの新しい研究を目にした。ライアンは中国の旅行会社であるクトリップの創設者であり会長である。クトリップはナスダックに上場し、現在、20億ドルの価値がある。
クトリップは利益を生み出すことで、素晴らしい機会をつくりだした。クリップは大勢のコールセンターの職員をたくさん雇用しているが、コールセンターの仕事はコラムニストの仕事と同じように、家で働くという理論にあうことが判明する。スタッフは電子機器をとおして観測されることが可能であり、必要とされているものはコンピュータ、電話一台、それと静かな場所だけである。しかしライアンには在宅勤務がうまく機能するかどうかわからなかった。そこでブルームと結果を観測する同僚と共に、クトリップは注意深く、アトランダムにデザインされた試みを導入した。ボランティアの有資格者255人からクトリップは誕生日を使って、およそ半分の社員を9ヶ月の在宅勤務へ、およそ半分を職場での仕事に割り当てた。
在宅勤務は大きな成功をおさめた。在宅勤務社員は職場に拘束されている同僚と同じ仕事をオンラインでこなしたが、出社している同僚より多く働くことができた。在宅社員の休憩時間も、病気にかかる日も、出社している同僚より少なかったからだ。一時間あたり受ける電話は、在宅社員の方がわずかながら多くなった。静かな家庭環境では、顧客の声を明確に聞き取ることができるからだ。どの通話も仕事に関したものだった。同時に在宅勤務者の報告には仕事への満足感が高く、一般的に雰囲気がよいということがあげられていた。さらに仕事をやめたくないと答えていた。
結果をまとめると、クトリップの見積もりでは、出社社員より在宅社員のほうが一人当たり375ドル相当の成果をあげ、オフィスの賃貸費用1250ドルを節約した。さらに新規雇用をおさえトレーニングの機会を減らすことで、400ドルも節約したことになる。この9ヶ月の平均給与が3000ドルになると聞かされているので、2000ドル以上の節約はとりわけ印象に残る。在宅勤務は少なくともクトリップでは可能であり、世界中のコールセンターでも可能なはずである。
おおよそアトランダムに管理された試みを続ける重要性も、考えるに値することである。在宅勤務の試みを終えたあと、在宅での仕事が楽しくない社員には会社に戻ってもらった。そして熱心な在宅勤務希望者が、会社に戻った社員と交代した。在宅勤務をやめる社員の多くが効率のあがらない社員であり、この自己選択のおかげで在宅勤務の効率はすぐに倍になった。私たちは以下の結論に到達するべきだろう。すなわち在宅勤務とは、自己選択が許されたときにさらに効果をあげるだろう。しかしアトランダムに実施されたときの評価ではなく自己選択にもとづいた評価になれば、私たちは裏切られることになりそうだ。
さて、もしご承諾いただけるなら、マイボトルでコーヒーを飲む時間だ。それともプールサイドのバーから冷たいビールといこうか?(さりはま訳・りばぁチェツク)
さりはまより
働きにいくということは通勤ラッシュに耐え、プライベートでは会いたくない輩を上司、同僚としてつきあうことに耐え、忍耐あるのみの苦しみだった、若い頃は。でも最近、こちらも歳をとったのだろうか? プライベートでは接触するはずのない人種を職場でウォッチングして、背後のstoryを想像して結構楽しんでいる。どこの国でも在宅勤務があまり普及していかない理由には、私たちが働くのはお金のためでもあるが、仕事をとおして人と関わりたいという怖いもの見たさの欲求があるからなのかもしれない。