丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十七日「私は座だ」を読む
一月二十七日は「私は座だ」と隠遁生活に入ったはずの大学教授が人々にかつがれてついた「会長の座」が語る。
丸山作品では具体的な物で置き換えられる箇所も、「座」のように抽象的な言葉にした文を時々見かける気がする。
良い悪いとかではなく、ここに散文と詩文の違いがあったりしないだろうか……と何となく最近思ったりもする。
私は学生時代、フランスのダダ以降の現代詩のゼミにいた(本当にまったく稼げないゼミである)。
さらに卒論のテーマに選んだのが、何を考えていたのやらフランシス・ポンジュという詩人である。
フランシス・ポンジュの代表詩集の題は「物の味方」である。石ころや牡蠣といった「もの」を、ひたすら感情を排して語り続ける。『そんな面白くなさそうな詩人をなぜ卒論に選んだのか?』自分でも分からない。
卒論を書きながら???の状態であったフランシス・ポンジュの石や牡蠣を語る言葉が、最近ふと映像と共に浮かんでくる。
感情を交えることなく言葉で物に迫ろうとしたポンジュの心が、ようやく少しわかってきた気もする。
散文の場合、これから展開するストーリーも大事だから、ポンジュみたいに「物の味方」的な見方はしないのだろう。そもそもポンジュのように石ころや牡蠣を淡々と言葉にしていたら、誰も読んでくれないではないか……
でも、なぜかそんなポンジュ作品を再度読んでみたい気がする昨今である。
そんなことを「私は座だ」の一文に思った。