丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月三十日「私は相槌だ」を読む
一月三十日「私は相槌だ」は、「世一の父が 相手いかん 話の内容いかんにかかわらず ともかく打ちつづける 習慣的な相槌」が語る。
世一の父親というのは、よく見かけるタイプの人物だ。そういうありふれた人物の悲哀、哀れさを、場面ごとの相槌で表しているようで面白い。
以下引用文。世一の父親の、相槌に誤魔化すようにして生きる姿。読んでいる側の私のいい加減な姿にも思え、ハッとする。むやみやたらに相槌をうって誤魔化して生きるのはやめよう。
世一の父は
どこの誰の言い分もまともに聞き入れず、
目上の者に命じられたことを
忠実に実行したとしても
必ずしも聞き入れたというわけではなく、
ひょっとすると
自身の言葉すら信じていないのかもしれず、
とはいえ
それでもなお
私の出番が絶えることはなく、
本音と建前の狭間を
巧みに縫って進んで行く。
(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』349ページ)
