アダム・スミス 道徳感情論 2章 たがいを思いやるよろこび1.1.15〜16

1.1.15
陽気な心が仲間の共感をうんで、さらに陽気にもりあがることがあるかもしれないが、よろこびを生じているようには見えない。だが、よろこびがないからといって、絶望から苦痛を生じるように見えるわけではない。陽気さも、絶望もともに、あきらかに幾分よろこびを生じたり、苦痛を生じたりはする。なにかの本でも、詩でも、同じものをしょっちゅう繰り返し読んでいると、もうその本を読んでも自分では楽しみが見つけられなくなる。でも友人に読んであげるときには、よろこびを感じることができる。友人にすれば目新しいことなのである。その本は当然ながら友人をわくわくさせることになり、私たちも驚いたり、賞賛したりしている友人に共感してしまう。だが、その本は私たちをもうわくわくさせることができない。私たちがみているような角度ではなく、友だちがみているような角度から、すべての考えを光にあてて見てみる。私たちは共感を楽しむが、その共感は私たちを元気づけてくれる楽しみをともなうものである。反対に相手が楽しんでいないようだと苛々して、本を読んであげることを楽しめなくなるだろう。同じような事例がもう一つある。友だちが陽気だと、私たちもあきらかに陽気に活気づく。だが沈黙していると、たしかに私たちは絶望してしまう。だが、友だちが陽気にしていると喜びをひきだす原因にもなるかもしれないし、友だちが沈黙していると苦痛を感じの原因になるかもしれない。だが、どちらかが唯一の原因だということはない。このように自分の感情が他のひとと一致していることは喜びの原因にも思われるが、一致していないときは苦痛を引き起こす。喜びも、苦痛もこれだけでは説明がつかないものである。私の喜びに対して友だちがいだく共感は、喜びを生き生きと表現することで楽しみになるかもしれない。だが私の悲しみに対していだく共感は、何ももたらしはしない。ただ悲しみをきわだたせるだけである。それでも共感は喜びを生き生きとしたものにして、悲しみを癒してくれる。他のひとの喜びの原因をしめすことで、共感は喜びを生き生きとしたものにする。また共感は、好ましいと同時に感じることができる感覚を心にしみこませることで、悲しみを癒してくれるのである。
 
1.1.16
 したがって私達が友だちとやりとりしたいのは、好ましいと思う感情より、嫌だと思う感情のほうである。でも嫌だと思う感情をともなう共感よりも、好ましいと思う感情をともなう共感から得る満足のほうが大きいのである。そして共感がないとショックを受けるのである。

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