近松門左衛門『冥途の飛脚』より「二十日余りに、四十両」は使いすぎではないだろうか?
大阪の新町遊郭から駆け落ちしていく忠兵衛、梅川。
世をしのぶ二十日間の逃避行の間に四十両を使い果たし、忠兵衛の故郷、新口村(現在の奈良市橿原)に向かう。
近松に限らず文楽にはお金の話題がしょっちゅう出てくる。
だが文楽を観ている時は、時代も違うことだしお金についてはほぼスルーして考えていない。
文字で読むと、金銭感覚が気になってくる。
一両は多分今の十万円くらい。400万円を二十日間の逃避行に使い果たしたことになる。いくらなんでも多すぎないだろうか?
借駕籠に日を送り、奈良の旅籠屋、三輪の茶屋、五日、三日、夜を明かし、二十日余りに四十両。使ひ果たして二分残る、かねも霞むや初瀬山
【現代語訳】
駕籠を借りあげて昼日中を送り、奈良の旅籠屋や三輪の茶屋で、五日、三日と夜を過ごし、二十日余りの間に四十両を使い果たし、残る金とては、わずかに二分。鐘の音がかすかに聞こえる初瀬山を遠くよそに眺めやりながら
四十両とした近松の心は?と考える。
元々がその金額だったのか?
それとも話を盛り上げようと多めに書いたのか?
あるいは四と死をかけたのか?
それにしても現代文学では、こんなに細かく金額を書かないのでは?なぜ書かなくなったのだろうか……と色々考える。