丸山健二『千日の瑠璃 終結8』より九月四日「私は土産話だ」を読む
「耳をつんざく雷鳴をものともせず 気晴らしの小旅行から帰ってきたばかりの老人がする」土産話が語る。
長患いで寝ている妻が聞き役だ。
以下引用文。
「干割れた餅」という比喩が映像的に浮かんでくる不思議さを思う。
まるで干割れた餅のごとく横たわっている老女に
私は次々に語って聞かせ、
生まれて初めて機上の人になった感動
大都市にひしめく夥多なる人口
そこに櫛比する高層建築物が放つ狂気の沙汰
(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』15ページ)
「干割れた餅のごとく」は、映像が浮かんでくるような言葉だ。
老女には失礼な比喩かもしれないが、餅という形状が変化してゆく食べ物が老女の一生と重なる気がする。
その直後にくる「夥多」とか「櫛比」という難しい言葉が、老女の干割れた餅のような肌に染み込んでゆくような面白さを感じる。
そして少年世一が近づいてくる。
以下引用文。
稲妻と世一の「刹那的な影」が、老女だけでなく詠み手の心も静かに圧倒する。
稲妻によって窓にくっきりと映し出される
近頃めっきり鳥の形姿に似てきた病児の
どこまでも刹那的な影と
私が放つ仄かな光が
互いに相映発して
寝たきりの老女に取り憑いている
塞ぎの虫を完璧に押さえこんでしまう。
(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』17ページ)
突拍子もない言葉が読み手に深く染み込む比喩と、突拍子もないだけで終わる比喩。いったい何が左右するのだろうか?