でも中には、共感しているわけでもない。感情が一致しているわけでもない。それなのに相手が正しいと思える場合も、たしかにある。
そういう時、相手を賞賛する気持ちと、感情の一致を認める気持ちは別物のようにみえるかもしれない。
しかし少し注意をむけてみれば、共感していないようにみえても、感情が一致していないよいうにみえても、相手を正しいと思う気持ちには、やはり共感や感情の一致が根底にあることを確信することだろう。
くだらない本性から生じる事柄を、一例にあげてみよう。なぜなら、そうした事柄は制度が正しくないからといって、堕落してしまうようなものではないからである。
冗談を言われてそのとおりだと思うことも、しょっちゅうかもしれない。仲間の笑いが正しいものだと思い、状況にあっていると思うことも、よくあるのかもしれない。
でも、自分では笑わない。おそらくユーモアの墓場にいるのかもしれないし、あるいは注意がほかの対象にむかっているのかもしれない。
しかし経験から、どんな種類の冗談に笑うことができるのか、ほとんどの状況において学んでいる。そこで、これは笑っていい冗談だなと判断するわけである。だから仲間の笑いが正しいものだと考え、その状況では笑うのが自然でふさわしいと感じる。そのときの気分では笑う気にならなくても、ほとんどの場合、心から一緒に笑うべきだと理解しているからである。