他の感情すべてにも、同じようなことがよくおきる。
見知らぬ人が深い苦悶の表情をうかべて通り過ぎたあとすぐに、父親の死の知らせを受け取ったばかりなのだと教えられたとする。この場合、父親を亡くした男の悲しみを認めないわけにはいかない。
しかし人間らしい心が不足しているわけではないのに、激しい悲しみを分かち合うこともないし、相手の話をきいて問題の第一楽章を心にいだくことが、ほとんどできないのである。男にしても、その父親にしても私たちからすれば、まったく面識がなく、私たちは二人とは関係のないことに身を捧げて生きているのである。
だから自分とは異なる境遇におかれた男があじわう絶望を、時間をかけて想像して思い描いたりしない。
しかし経験から、こうした不運は悲しみをある程度かきたてるものだと知っている。
男の境遇をよく考え、あらゆる角度から思い描くことで、きっと男に心から共感するだろう。
相手の悲しみを認める土台となるものは、こうした条件つきながら共感しているという意識である。だが、こうした場合でも実際には、共感しているわけではない。
まず経験があって、それからその経験に対応する感情がある。このことから、よく知られているルールがひきだされ、感情への認識をあらためていく。
すなわち他の多くの事例のように、私たちが今感じている感情が、適切なものではないということである。( さりはま訳 )