アダム・スミス 道徳感情論 1.1.36 二つの立場

だが、こうしてみても、観察者の感情が受難者の感じている暴力にまでおよばないことも多いだろう。人間とは、生まれつき同情的ではある。でも、ほかの人の身になにかがふりかかるとき、その出来事に主としてかかわる当事者の心を自然にうごかしていく情熱と同じものを、心にいだくことは決してない。立場を想像して交換してみることで、共感がうまれる状況に身をおいてみても、それは一時的なものにすぎない。観察者におしつけられるのは、自分は安全なところにいるという考えであり、実は自分は受難者ではないという考えである。似たような感情をいだくことはできなる。でも、暴力に対処している受難者と、同程度の感情をいだくことはできなくなる。そのことに気がついた当事者は、さらに完璧な共感をつよく望んでくる。そうした安心感にあこがれはしても、観察者の感情と一致しなければ、安心感をあたえることはできない。乱暴な感情だろうと、不快な感情だろうと、あらゆる感情の面で、観察者が相手の心にあわせて心の拍子をとると、唯一の慰めとなるものが組み立てられる。だが慰めを期待することができるのは、相手にあわせて情熱をダウンした場合だけだ。もしこんな表現が許されるなら言ってしまおう。まわりの感情とあわせたり、一致させたりすることで、もともとの鋭い響きは減り、つまらないものになる。観察者と当事者とでは、ある意味、常に感情が異なるものである。深い同情であっても、本来の悲しみと完璧に同じわけではない。立場を交換することで、心の奥にある意識から、共感的な感情が生じるのである。心の奥の意識は想像上のものであり、意識の度合いを弱めるだけでなく、意識の質に変化をもたらし、まったく異なるかたちに修正するものである。こうした二つの立場における感情は、あきらかに他方の感情と一致するものであり、社会が調和していくには十分なものかもしれない。程度はことなれ、この二つ立場の感情は重なるものであり、求められ必要とされることである。(さりはま訳)

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