奴隷とは、アリストテレスによれば、自然のさだめだとして見なされている。奴隷自身も、大昔からそう見なしてきている。人間の威厳とは、キリスト教によって語られたものなのである。人間の威厳は、ここ数百年間において、だんだん熱心に主張されるようになってきた。しかし近年、教育が普及してきたことにより、そうした言葉の意味を感じるようになってきた。そこで今になってようやく、いわゆる「下層階級」と呼ばれる人たちがいるということが、避けられないものかどうか調べようとしている。すなわち、多くの人が生まれたときから過酷な労働を運命づけられ、他の人が洗練されて文化的な生活をおくるのに必要な品を提供していく必要があるのかどうかということである。かたや働く人は、貧困と辛い労働のせいで、そうした生活を共有できないでいるのだから。(1.1.6)
貧困と無知がだんだんと消え去るだろうという期待は、19世紀の労働者階級が着実に進歩していくことに支えられているのかもしれない。蒸気機関のおかげで、労働者は疲れて、卑しくさせる労働から解放された。賃金も上昇した。教育は改善され、一般に普及した。鉄道と印刷機は、国内の異なる地域で同じ商売をしている人たちが、お互いに簡単にやりとりすることを可能にし、さらに幅広くて先見の明がある政策を引き受けて実行することも可能にした。知的な仕事への需要が増えたことが原因となり、職人階級は急激に増加し、今では技術のいらない労働をする人たちよりも数が多くなった。職人の大半は、もともとの意味での「下層階級」に所属するのをやめた。そして職人のなかにはすでに、一世紀前の上流階級の大半のように、洗練されて上品な生活をおくっている者もいる。(1.1.7)
こうした進歩のほうが、実用的な関心をもとめ、次の問いかけに不可能とする人よりも果たす役割が大きい。世界中のすべての人に公平な機会をあたえて、文化的な生活をおくり、貧困の苦痛から解放できないだろうか。また、過度に機械的な労働から生じる淀んだ影響から解放できないだろうか。そして今、この問いかけが、まじめな人々が増えている時代だということもあって、最前列へとむけられている。(1.1.8)
この問いかけには、経済学は十分に答えることができない。答えは、道徳に関したものにもなるし、人の政治的能力に関したものにもなるからだ。こうした事柄について、経済学者は特別な知識をえる方法を持ち合わせていない。他の人がするようにするだけであり、掌中で最善をつくすまでである。しかし、答えの大半は事実と推論にあり、それらは経済学の範疇にある。事実と推論とは、経済学が関心を主にむけるものでもあり、また一番関心をはらうものでもある。(1.1.9)