更に私は、書肆文明堂御主人に、深く感謝しなければなりません。私は文明堂さんの義侠的好意を以て、今日正に此の楼を出づることになつたのであります。早く、一日も早く、半時も早く、此の牢獄のやうな苦しい楼を脱けて出たひ、此の泥のやうな汚い仲間から飛んで出たいと思つたのは、長い間でありました。否、身を捨てて此の里に入つた其の時から、此の思ひは、常に絶えなかつたのであります。然るに今は、長い間待ち望んでゐた時がきたのであります。年期約束の時さへ来れば、身は自由になろ得らるるものの、一日でも半時でも、早ければ早い程嬉しいものであります。喜ばしいのであります。殊にこの度は、文明堂さんが、私の汚い身を落籍して下さつたのではありません。私の境遇に同情し亦私の拙い筆を買つてくださつたのであります。私は心からして、永久に此御恩を忘れないことを誓ひます。
客となつて、贔屓にして下さつた方々のことを、此の物語の材料にしたしたことは、申譯がありません。取分け公にすべきでないお手紙を、前篇に出しました爲めに、御迷惑なさつた方も、三五人はありましたさうですが、書肆さんの御注意もあり、皆御本名は隠してもありますし、悪い心があつての悪戯でもありませんかつたので、幾重にも御勘弁を願ふのであります。なほお客様から戴いた、お手紙やお端書の数は、二千以上に上つて居りますけれど、此等はみな、ここを出る前に、焼いて了いますから、何うぞ御安心下さいませ。