思へば、私の半生は夢でありました。不幸な、不思議な長い長い夢を見てゐたのでありました。今日は、いよいよ、此の長い長い夢から覚むるといふ唯今、振り返つて、四年有余の夢の跡を、眺めて見ますると、身も戦慄はるるばかり、恐ろしくも、嫌な思ひがするのであります。何とは知らず、熱い涙が、はふり落つるのであります。此の身自らが、苦しい、悲しい、辛い嫌な思ひをしたばかりでなく、何れほど、浮世の男の方を、苦しい目、悲しい目に遭はせたであらう、嫌な腹立たしい思ひをさせたであらう。ああ、今日が来て欲しい。一刻も早く、此の罪の世界から逃れ出でて、新しい生活に入りたい。人間らしい生活がして見たい。もうもう何んな事情がありましても、親の爲めであれ、此ればかりは宥して貰あはねばなりません。女工となつて、よし労働はするとても、二度と再び罪の世界に帰らうとは、露ばかりも思ひません。萬一再び此の決心を翻へさねばならぬやうな、場合に出遭ひましたならば、私はもう死ぬより他はありません。
さるにても、不思議なる女心よ、苦しんでは泣き、辛くては泣き、涙を隠して、心にもなく笑ひ、思ひの外に唄ひ、偽りの媚を献げて、浮世の男の方を、罪の手に弄んだ、此の泥のやうに濁り、死屍のように穢ない、罪の里、悪の世界を、嬉しくも脱げ出でんとするに當りまして、訝しくも、名残の惜しまるるのであります。此の楼に対してでもありません。朋輩に別るるが爲めでもありません。不思議なる女心よ。
大正二年四月二十日、罪の夢より醒むると云ふ今日、櫻花は早くも散り果てて、若芽に心も晴れんとする時、新宿大萬楼の二階に於て。
芳子事 和田元子識す 当年二十六歳