Le Droit à la paresse – Wikisource
Paul Lafargue: The Right To Be Lazy (Chap.1).
あらゆることに怠けようじゃないか。ただし、愛することと、それから酒を飲むことは別だ、それから怠けることも怠っちゃいけないよーーーレッシングより
1章
不吉な教え
フランスの労働者階級は、資本主義文明の支配のもと、妙な妄想にとりつかれている。この妄想のせいで個人も社会も衰退してしまい、過去2世紀にわたって、人々は悲しいまでに苦しんできた。この妄想とは、労働への愛である。さらに労働への狂おしいまでの情熱である。しかし、その情熱のせいで、人々も、またその子どもたちも、心身が衰弱するまで体力を使い果たしている。こうした心の変調に向き合うことなく、聖職者も、経済学者も、倫理学者も、労働に聖なる後光をかざしている。神ならぬ身でありながら、愚かしい人間は神よりも賢くありたいと願った。謗られて当然の身ながら、心弱い人間は神にののしられた不名誉を回復しようとした。私はクリスチャンでもないし、経済学者でもなければ、倫理学者でもないけれど、人々の判断をもとに、神の判断に異議を申し立てよう。信仰の、経済の、思想の自由をもって、資本主義社会で労働がもたらす怖ろしい結果に異議を申し立てよう。
資本主義社会では、労働はすべて知的堕落の原因であり、すべての醜さの根本的な原因でもある。二本足の従者が仕えているようなロスチャイルド家のサラブレッドと、ノルマン人の農場で大地を耕したり、たい肥を運搬したり、農産物を運ぶのに使われる鈍重な動物を比べてみるとわかるだろう。未開の地に生きる高貴な人々を見るとわかるだろう。彼らはまだ、交易についてきた伝道師や布教をかねた商人たちがもたらすキリスト教、梅毒、そして労働の教えのせいで堕落させられていない。そしてその後で、機械のみじめな奴隷である我々を見るがいい。
文明化されたヨーロッパで、人間が生来もちあわせている美の跡をたどるには、経済学からくる偏見のせいで労働への嫌悪感が払拭されていない国を探さなくてはいけない。スペインも労働への嫌悪感が衰退しつつある国だが、それでも我々の囚人が働かされているような工場やバラックのような工場よりは、ずっと工場の数は少ない。それに芸術家たちは奔放なアンダルシア人への憧れに、肌が栗のように浅黒く、鋼の棒のように強くてしなやかな、アンダルシア人への憧れに心躍らせる。そう、ぼろぼろの赤いケープを優雅にはおった物乞いが、オスナの君主にも等しい話し方をするのを聞いては、心躍らせる。スペイン人にとっても、原始の野獣のような人々は見かけなくなりつつあるが、それでも労働とは奴隷がおこなうことであり、最悪の事柄なのである。栄華の時代のギリシャ人は、労働に対して軽蔑しかしていなかった。奴隷のみが労働につくことを許可されていたのである。自由民は、心と体の鍛錬のみをしていた。それはまた、アリストテレスやフィディアス、アリストファネスのような人々が歩き、息をしていた時代なのである。マラトンの地でほんの一握りのヒーローがアジアの大群を打ち破り、そのあとすぐにアレクサンダーに征服されてしまう時代なのである。太古の哲学者たちは労働を軽蔑することを教え、自由民にとっては不名誉なことだと教えた。詩人は、神々からの贈り物である怠惰について詩を書いた。「O Melibae nobis haec otia fecit]
キリストは、山頂での講話で、怠惰についてこう伝道した。「野のユリがどうして育つのか、よくわきまえなさい。野のユリは働きもせず、紡ぎもしません。栄華をきわめたソロモン王でさえ、このような花の一つほどにも着飾っていません(訳注・・・マタイの福音6章28節)」髭をはやし、怒りの形相をしたエホバは、自分を崇拝する者に対して、理想的な怠惰の例をあげた。すなわち6日間の労働の後、永遠に休息するのだ。
一方で、仕事が有機体のように結びついて必要なものとなる民族とは、どのような民族なのだろうか。オーヴェルニュ人(訳注・・・まじめで働き者だが気が強いといわれている)、イギリス諸島のオーヴェルニュ人ともいえるスコットランド人、スペインのオーヴェルニュ人ともいえるガリシア人、ドイツのオーヴェルニュ人ともいえるポメラニア人、アジアのオーヴェルニュ人ともいえる中国人だろう。私たちの社会で、仕事そのものを愛するという仕事を愛している階級はどこだろうか。小作農、小売業だろうか。一方は大地のうえに身をかがめる者であり、もう片方は店のなかで客の気を引こうとするものである。地下の回廊のモグラのように急に動き、時間をかけて自然をながめるために背をのばすことはない。
同時にプロレタリアートは、文明化された国で製造されるものを抱きしめているような階級である。プロレタリアートのような階級の人々が自分たちを自由にするということは、人間らしさを、召使いのようにぺこぺこしている状態から解放することである。そうすれば人間という動物から、自由な存在がうまれるだろう。プロレタリアートは自分たちの本能にそむき、歴史的につづいてきた自分たちの使命を嫌悪しながらも、仕事のドグマによって堕落させられてきた。プロレタリアートの乱暴さも、悲惨さも、堕落した罰だったのだ。個人に関するものだろうと、社会に関するものだろうと、すべての悲しみは仕事への情熱から生まれている。(LadyDADA訳・BlackRiverチェック)
Lady DADAのつぶやき・・・さらにブログを読んだ方から、シュールレアリスムのアンドレ・ブルトンがラファルグの怠惰の権利の初版本を大切にもっていたこと、ブルトンのナジャのテーマ「アンチ労働」はラファルグからきていることを教えていただきました。巌谷国士訳ナジャ(岩波書店)よりブルトンの労働観がよく出ている個所をそのまま引用させていただきます「いまわしい生活上の義務から労働を強いられるのならまあいい。だが、労働を信じろだの、自分の労働や他人の労働を敬えだのと要求されるのはごめんである。かさねていうが、私は自分が昼ひなかを歩く人間だと信じるよりも、夜のなかを歩いているほうが好きだ。」