Private schools for the poor: Rich pickings | The Economist.
2012年3月17日 ムンバイ発
共和国記念日にあたる1月26日のムンバイでの話であるが、一人の初老の尼が、メアリー・イマキュレイト女子高校の校庭に集められ、静かにしている1000人の少女たちに話しかけた。「インドの憲法を制定したひとが今日のインドの状況を見たなら、涙を流してしまうでしょう」。その尼は泣きながら続けた。「しかし、この学校は希望を与えてくれているのです」。周囲を囲んでいるボロを着た両親たちもうなずく。親たちは、応募が定員枠をこえているこの学校に子供をいれるために、あらゆることをしてきた。道をへだてた公立学校なら無料なのに、小学校の生徒でも授業料が1年で180ドルかかる。ムンバイのスラムやナイジェリアの掘ったて小屋が密集する街、ケニアの山中の村まで、数百万もの貧しい子供たちが公立学校ではなく私立にはいることを選択している。そうした子供たちの数は急速に増加している。
2000年から学校にかよう子供たちの数は急速に増えているにもかかわらず、いまだに世界中で7200万人の子供たちが学校にかよっていない。その半分はサハラ砂漠以南のアフリカの子供たちであり、4分の1が東南アジアの子供たちである。国連の試算によれば、浮浪者をクラスにとどめる費用は2015年までに16兆ドルになるが、それは国連の大きな発展目標の一つなのである。しかしながら無償化された教育とは、多くの両親が金を払っても避けたいものなのである。
パリに基盤をおくシンクタンクであるOECEによれば、例えばインドでは、1/3から1/4の生徒が私立の学校にかよっている。ムンバイやその他の地域で、ロンドンの教育機関のためにリサーチをしているギータ・キングダムの見積もりによれば、都市部では私立の学校にかよう生徒の割合は81パーセント以上になる。
2007年に小学校を無償の義務教育とする政府の決定により、私立の学校の数が増大した。多くの両親は州政府の教員に幻滅していたのだ。例えば州政府の教員は学校に姿をあらわさなかったり、間違いを訂正しなかったりとひどい教え方をしていた。ムンバイに基盤をおく慈善団体のプラサムの調査によれば、小学校が義務教育化されてシステムが拡充したとき、州政府の学校のレベルは下がった。その一方で私立の学校はレベルを維持した。
中国でも、授業料が安い私立学校が広がっている。しかし、それは公立学校がひどいからというより、移民してきたひとたちには、無料で子供たちに教育をうけさせる権利がないからだ。北京では、50万人もの移民の子供たちが公立の学校に入れないでいる。多くの子供たちは無認可の私立学校にかようが、公立学校と比べると私立の設備は劣っている。
課題
ガーナ、ナイジェリア、ウガンダのようなアフリカの国では、教えるということは、しばしばまったくの名誉職であって、職業ではない。政府は新しい学校をたくさん建設したが、劣悪な教師でさえ解雇できないでいる。生徒たちを殴る教師による貧弱な教育がはびこっている。私立学校にとって、両親は気むずかしい顧客である。彼らは校舎がしゃれているかどうかということより、教育の質を気にかける。
ニューキャッスル大学のジェームズ・トーリィは、貧しい国における安価な私立学校の研究のパイオニアである。またジェームズはいくつかの私立学校をたちあげてきた。彼の調査は2009年に「美しい木」という本で出版されたが、そうした学校が存在することすら知らない地方公務員をしばしば驚かせた。トーリィは民家の居間でおこなわれる授業について述べているが、それはしばしば子供の基本的な世話の延長線上にある。ほとんどの学校は利益を追求するものである。とはいっても、こうした学校が孤児や極貧の子供たちに自由に出入りできる場所を提供しているのかもしれない。
しかし私立学校は、ボス風をふかす公務員に向かい合うという問題に直面している。とりわけインドにおいて顕著である。インドでは利益をだそうとして学校を運営するのは非合法である。だから授業料をとる学校は、まず慈善団体として活動し、ビジネスとしての活動はその次にくる。教育活動への権利は2010年に制定され、登録しなければ閉鎖するという脅かしで、助成金をうけていない学校をむりやり登録させた(調査によれば、約半数の学校だけがわざわざ登録した)。また同法は、1/4の生徒を貧乏な家族からとることを私立学校に義務づけた。多くの学校が登録したが、学校敷地への補助金が支給されなかったからである。いくつかの州議会は、私立学校の教師も公立学校の教師と同じ給料を支払わなければならないし、広い校庭や図書館などのような予算を要求することを定めた。
大きな援助団体や慈善団体は私立学校に懐疑的である。私立学校は不平等を拡大し、州の規定を傷つけてきたと論じている。セーヴ・ザ・チルドレンのトーヴ・ウォングは、私立学校がいくらいっぱいあったところで、極貧の人々のために教育を提供してきたか疑問をはさむ。彼女が調査にもとづいて指摘したところによれば、貧乏な両親が子供を私立にやるのは公立学校がひどい場合のみである。もし公に予算が組まれる公立学校が改善されれば、もっと公立が普及していくだろう。
しかし、世界でもっとも貧しい人々たちのなかには、教育費の支払いをするために大きな犠牲を払って、彼らのお金と対価なものとして教育をうける人もいるということは心痛む事実である。公立学校における失敗が怠惰と欲望を際立たせるものなら、こうした貧しい人たちの選択は私立学校の勤勉さと企業家精神への感謝のあらわれなのである。
(LadyDADA訳)
Lady DADAのつぶやき・・・このブログの翻訳をチェックしてくれているBlackRiverは定年退職後不本意にも再任用を拒否された教員だが(詳しいことはブログ内別ページの『「なぜ再任用が拒否された」BlackRiverの一人裁判ドタバタ記録』をお読みください)、在職中は本当にできない生徒たちの面倒をよく見ていて、再任用を拒否された今も教え子たちから相談の電話がよくかかってくるようだ。日本の教育はBlackRiverのような多くの無私無欲の教師によってささえられてきたのだろう。ただ、そうした教師の再任用を平気で口頭で断るような教育行政の在り方はやはり考えなくてはいけないと思う。BlackRiver先生の弁護士ぬきの裁判(第1回口頭弁論)が7月31日13時15分に千葉地裁で始まる。勝ち目のない裁判ではあるが、堂々と今までの教育への思いを語ってもらいたいものだ。でないと、日本の公教育もこの記事のようになるだろうから。