隙間読書「水晶幻想」より『青い海黒い海』

『青い海黒い海』

作者:川端康成

出版社:講談社文芸文庫

ISBN4-06-19671-3

川端康成といえば、熱海の土産物屋にならんでいる「踊子饅頭」の絵柄のイメージがどうも頭にあったのだが、この水晶幻想という短編集の冒頭の短編『青い海黒い海』を読んだら、そんな野暮な(失礼!)イメージが吹っ飛んだ。

川端康成が「文芸時代」に『青い海黒い海』を発表したのは大正十五年、二十八歳のとき。ヨーロッパではダダのツァラとシュールレアリスムのブルトンが対立しはじめた頃である。この不思議な短編も、そんな時代の空気に影響されて書いたものだろう。

「『青い海黒い海』はさっぱり意味がわからん」と思う人も多いようだけれど、この短編は意味なんかどうでもいい。言葉が紡ぐイメージの海に気持ちよく溺れていく…ために書かれた作品ではないだろうか。

 

『青い海黒い海』は、語り手が心中の前に書いた「第一の遺言」、二度目の自殺の前に書いた「第二の遺言」、そして最後に作者の言葉でまとめられている。

死に瀕した語り手が、臨終の前後に去来する思いを描いた不思議な作品。理性で読みとるのではなく、言葉がうつしだす回り灯篭のような世界を楽しみたくなる。

 

この短編の語り手は、今の時代、すぐ隣にいそうな感性の持ち主である。次の一節も「たべおそ」に出てきそうなくらい現代風の感覚。

 

「夏の日をまともに受けながら裸で砂の上に眠ったりするのは、大変毒だと思いますけれど、こんな風に自分を青空に開けっ放して寝ることがたまらなく好きなんです。それに私は、生まれながらの人生の睡眠不足者なのかもしれません。人生で寝椅子を捜している男かもしれません。私は生まれたその日から母の胸に眠ることが出来なかったのですから。」

『青い海黒い海』より

 

この主人公は自然と同化すると言えば響きはいいけれど、以下にご覧のとおり、なよなよとした葦の葉に同化していき、しかも葦の葉に支配されてしまう気持ちになる男である。

 

「私の目は一枚の葦の葉になっていきました。やがて、私は一枚の葦の葉でした。葦の葉はおごそかに揺れていました。その葦の葉が、河口や海原や島々や半島やの大きい景色を、私の眼の中で完全に支配しているではありませんか。私は戦いを挑まれているような気持ちになってきました。そして、じりじりと迫ってくる葦の葉の力に抑えつけられて行くのでした。」『青い海黒い海』より

 

 

でも葦にも負ける男が見る幻想の美しさよ。自分を捨てて他の男と結婚した女、きさ子を語るときまで、その言葉は美しい。

 

「その証拠にはその時もちゃんと十七のきさ子が小さい人形のように私の前へ現われてきたではありませんか。けれども、この人形は清らかに透明でした。そしてそのからだを透き通して、白馬の踊っている牧場や、青い手で化粧している月や、花瓶が人間に生まれようと思って母とすべき小女を追っかけている夜や、そんな風ないろんな景色が見えるんです。その景色がまた非常に美しいんです」『青い海黒い海』より

 

『青い海黒い海』で交わされる会話は用件を伝えるものではない。美しい世界に遊び、異次元に連れて行ってくれるもの。こんな怪しい会話に埋もれてみたい。

 

きさ子「どうぞご自由におはいり遊ばせ。人間の頭には鍵がございません。」

亡くなっている筈の父「しかし、生と死の間の扉には?」

きさ子「藤の花の一房でも開くことが出来ます。」『青い海黒い海』より

 

『青い海黒い海』のあとがき解説に目をとおしてみたら、高橋英夫氏は「これは川端康成という一人の魂に先天的にからみついて重い、冷えきった「死」の気配の言語的転換としての作品である、というふうに読めてくるだろう」と何やら難しいことを書かれている。でも、たしかに死の気配を描いているんだけれど、夏の日を受けて寝っ転がっているうちに感じる死の気配は妙に明るいと思う。

 

『青い海黒い海』の翌年、川端康成は「伊豆の踊子」を発表、今でも伊豆の土産物屋はその恩恵にあずかっている。私も踊子饅頭は大好きだけれど。

でも川端が『青い海黒い海』のまま、尖がった作家でいて、この抒情的な語り口で、世間から「こんなの分からん」とそっぽを向かれる作品を書き続けていてくれていたなら…とも思う。

つんつんした川端作品をもっと読んでみよう…と脱線読書道は続いていく。

 

 読了日:2017年7月3日

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