「仮装人物」
著者:徳田秋聲
青空文庫
八月五日に鏡花記念館で開催される「1907年の秋聲と鏡花―“文学”の二筋道」というトークの予習用に読んでみた。
でも秋聲の作品はどれもこれもタイトルからして「絶望」「犠牲」「黴」「骸」「爛」と暗い。正直なところ、タイトルを見ただけで読む気がしなくなる。
そのなかで「仮装人物」はタイトルもよし、文章も初期のものとは違うというコメントあり、岩波文庫版は川端康成が解説を書いている…ということなので、とりあえず青空文庫で読んでみた。
いや、ひたすら長かった。
老いた作家と年下の愛人との話が延々とつづく。老作家の愛人も作家で自由奔放な生活をおくっている。老作家の愛人が愛人を次から次につくっては別れ、また老作家のもとへ戻り、また愛人をつくっては…の繰り返しである。ウンザリした。よく最後まで読んだと思う。
鏡花とは反対にありのままを、醜いものもそのまま書くという秋聲のスタンスも嫌い。
美しい愛人「葉子」も痔疾にかかり、老作家のまえで手術をうける。なんでこんな描写を読まなくてはいけないのだろうか。
「メスが腫物をえぐりはじめると、葉子は鋭い悲鳴をあげて飛びあがろうとした…今度は内科の院長が、薔薇色の肉のなかへメスをいれた」
この愛人は痔疾がとりもつ縁で担当医と恋仲になり、老作家のもとを一時去る。という話がユーモアをまじえず、ひらすら真面目に語られていく。
なぜ、ここまで醜いものを見つめなければいけないのだろうか…醜いものだらけの世の中なのに。
「見るたびに葉子は生活に汚れていた。風呂へ入るとき化粧室で脱ぎすてるシミイズの汚れも目に立ったが、ストッキングの踵も薄切れていた」
鏡花とは真逆に汚れたものの描写を究めようとした作家、秋聲。「シミイズの汚れ」とか「薄切れていた」とか、汚れ描写には優れている。だが、これ以上読みたいとは思わない。
ただ川端康成の解説は気になるけれど。
読了日 2017年7月5日