作者:ハンス・ハインツ・エーヴェルス
訳者:前川道介
世界幻想文学大全 怪奇小説精華
不気味な場面のあとに可愛らしい場面がでてきても、「もしかしたら…」という思いに恐怖感がつのるだけ。可愛らしい恋人たちのやりとりに、まだ起きていない未来の事件を感じさせてしまう「蜘蛛」は怖い。
首吊り自殺のつづくパリのホテルに自ら志願して宿泊した医学生は、蜘蛛の雄が雌に食べられる場面を目撃する。「若々しい血をガブガブ吸った」という語りかけるような前川訳のおかげで本当に怖い。
「窓の桟に降りると、雄は渾身の力をふりしぼって逃れようとした。が、遅すぎた。雌は早くも雄をグイッと捕まえ、またもとの巣の真ん中へと引き上げていった。つい今しがた愛欲に身を焦がしたベッドが、今や一変した。先ほどの情夫は身をもがき、弱い脚をくりかえし拡げて、この荒々しい抱擁から逃れようとしたがだめだった。恋人はもう雄を自由にしてくれなかった。ニ三分後には糸を吹きかけて、がんじがらめにしてしまった。それから雌は鋭い口を胴に食い込ませ、若々しい血を思い切りガブガブ吸った」
主人公は向かいの建物の娘と部屋の中から、やりとりをかわすようになる。可憐なやりとりだけれど、首吊り自殺の部屋、雌蜘蛛に食べられる雄蜘蛛のイメージがかぶさってきて怖い。
「ぼくたちは奇妙なゲームを始めた。クラリモンドとぼくの二人でだ。そのゲームを日がな一日やるようになっている。こっちが挨拶を送ると、すぐに向こうも挨拶を返す。それから手で窓ガラスをぼくがコツコツと叩くと、見るか見ないかのうちにもう同じようにコツコツと叩き始める」
医学生の首吊り死体が発見される最後の場面は、蜘蛛に対する生理的嫌悪、しかも蜘蛛を噛みつぶすという嫌悪感で怖くなる。書かれてはいない噛みつぶすまでの過程を思い、怖くなる。
そして「ずたずたに」とか「へばりついていた」とか嫌悪感を強めるような前川訳も、ほんとうに怖い。
「そしてその歯の間には、ずたずたに噛みつぶされて、奇妙な藤色の斑点を持った大きな黒い蜘蛛が一匹、へばりついていた。」
読了日:2018年5月3日