二月十日、鏡花記念館講座「鏡花と親しむ」第三回の課題本が「海の鳴る時」だった。講座の前、後で何回読んだろうか? みじかい作品ながら、五回くらい読んだのではないだろうか?
わたしの読解力のなさ故に、分からないところが多々生じ、何度も繰り返して読むことになった。でも、なぜ分からなかったのかと考えてみれば、その分かりにくいところに鏡花の魅力がひそんでいるいるように思う。
まず白山颪(おろし)のなか、粟生の橋のたもとの茶店に、颪から避難してくる男「予」、茶店の爺さん、爺さんの息子「嘉造」、嘉造の人力車の客の四人が集まって、彼らの語りで話が進められていく……のだが、わたしには誰が誰なのか途中で曖昧模糊としてきてしまう。
注意深く読めば加賀の言葉の爺さんやら、少し若い「予」とか、東京からきた客とか、会話の区別がつくのかもしれない。
でも、ここでは誰が誰なのかということは多分どうでもいいことなのかもしれない。この茶店にいる四人の男たちは、かつての召使であった義理の父親に迫害されている元三千石の御姫様「お絹」に同情し、何とかしてあげたいという気持ちでつながっている。その連帯感がおそらく大事なのだから。
四人の男たちがいる茶店の描写もあまりない。そのかわり、茶店の外の凄まじい雪風の描写は迫力がある。茶店がその嵐から逃げ込める場所ということが分かるだけで、具体的な描写は少なくてもいい。茶店が心地よい、安心できる場所だということが伝わってくる……そう思えばよい筈なのに、具体的に頭のなかで茶店を思い浮かべようとしていた。
大事なのは、茶店が雪風から守ってくれる心地よい場所だということ。外の雪風のすさまじさを感じ、茶店の心地よさを感じれば、もうそれでよいのではないだろうか。
最後の部分も、鏡花はすべてを明瞭に書いていない。あくまでほのめかすだけで、読者の想像力にゆだねている。最初、読んだときは、どう解釈すればよいのだろうかと戸惑って分からなくなった。
お絹が恋人のことを旅客に伝えるやりとりはなく、おそらく……と想像するだけである。恋人からもらった釦を「操が守れそうにない」と返しに雪道を素足でやってくるお絹の釦への思いも、旅客が語る「此の婦人の魂」という言葉で想像するだけである。
何回も繰りかえし読んでいるうちに、この書かれていない鏡花の思いを想像する過程が楽しくなる。すべてが書かれていないゆえに、最初は分からなかった部分が、だんだん考えるのが楽しい、鏡花の魅力に思われてくる。
最後の箇所もどう解釈すれば……と戸惑いつつ繰り返し読むうちに、それまでモノトーンに見えていたお絹が、ここで生き生きとした存在に見えてくることに気がついた。なぜだろうか?
腕をあげたこと、頬に血の色が浮かんで見えたこと、初めて肉声で語ったこと……描写は短いながら、そうした言葉が、お絹を生き生きとしたものに見せているのではないだろうか?
最後の行近くまで、旅客の語りをとおしてしか、お絹の声は聞こえてこない。最後の行で「あい」と返事をすることで、わたし達の耳にお絹の肉声が届くのである。お絹の肉声を届けて「海の鳴る時」を終えることで、鏡花は運命が変わっていく一歩に踏み出したことを伝えようとしたのではないだろうか?
女(むすめ)は夢中ながら、其の手を追ふが如く、玉のやうな腕(かひな)を上げた。炎先(ひさき)はぱっと立つて、片頬に血の色が浮んで見えた。
「お絹さん、お絹さん。」
女(むすめ)は唇を結んだまま、眉を顰(ひそ)めたまま、声も微(かすか)に応じたのである。
「あい。」
すべてを語り尽くすことなく、読者の心にゆだねる部分がある鏡花は、だから難しくもあり、楽しくもあると思いつつ本をとじる。
2019.2.19読了